こんな悲惨なことはあるもんじゃあございません。でも、人間の力で、日頃の心がけがよければ、逃れられないはずはねえとこう思うんですが、それに就いて皆さん、なるべく荒地を開いて、それに、ハト麦と、ジャガタラ薯とをお植えなさいまし。ハト麦は、世間並みの大麦や小麦と違って、肥料《こやし》がいりません。そうして、蒔《ま》いて僅かの間に取入れができます。その上に取穀《とりこく》が多いし、味がよろしいし、食べて薬用にもなるものでございます。種子はわしのところにたくさんございますから、分けてお上げ致しますよ。
与八は、電剣先生から聞き覚えたハト麦の栽培法を、村人に伝授を致しました。それから、ジャガタラ薯も、まだ作り方を知らない人に教えてやりました。村人のうちには、ハイハイと聞いてはいるが、実行しない人も多くありましたが、与八は、それに頓着なしに、ハト麦の効能を説きながら、その種子を配り歩いています。
饑饉というものは怖ろしいものですよ。わしらも子供の時に見ました。野原にちっとも青いものがありませんでな。みんな人間が摘《つ》んで食べてしまうからです。それでも足りないで飢《かつ》え死ぬ人が多くありまして、わしらが見ても、街道筋にゴロゴロ行倒れが毎日のように倒れました。わしの大先生《おおせんせい》は心がけのいい人ですから、そういう時の用心がちゃあんと出来てましたから、わしらはいくら饑饉でも、ちっともひもじい思いをしたことはございませんでしたが、世間には、明日食うものがない、今日食うものがない、二三日食わない、なんていう人がザラにありました。
天保の年は、四年と七年と二度も続いて饑饉がございましたが、七年の方が殊《こと》にひどうござんした。その年は春の初めから引続いて、季候が不順でございまして、梅雨《つゆ》から土用まで降りつづいた上に、時候がたいそう寒うございまして、日々毎日、陰気に曇ってばっかり、晴れたかと思えば曇り、曇ったかと思えば雨が降る、といったような陰気な年でございました。その時のことです、相模の国の二宮金次郎という先生が、その年の季候をたいそう心配しておいでなさいましたが、土用にさしかかると、もう空の気色がなんとなく秋めいて来て、草木に当る風あたりが、気味の悪いほどヒヤヒヤしていましたが、ある時|新茄子《しんなす》をよそから持って来てくれたものですから、その茄子を糠味噌《ぬかみそ》へつけさせて食べてみますと、どうしても秋茄子の味でございますから、これは只事ではねえぞ、さあ村の人たちよ、饑饉年が来るから用心しなさいと言って、その晩、夜どおし触書《ふれがき》をつくって諸方へ廻して、皆の者に勧めることには、明地《あきち》や空地《くうち》は勿論のこと、木棉《わた》を植えた畑をつぶしてもいいから、作《さく》をつくりなさい、蕎麦《そば》、大根、蕪菁《かぶら》、にんじんなどをたくさんお作りなさい、粟《あわ》、稗《ひえ》、大豆などは勿論のこと、すべて食料になるものは念を入れてお作りなさいとすすめ、御自分では、穀物の売物があると聞くと、なんでもかまわず、ドシドシ買入れ、お金が尽きた時は、貸金の証文までも抵当に入れてお金を借入れ、それで穀物を買い、人にもそのようにおすすめになりましたが、なにをそんなに二宮様がおあわてなさる、と本気にしなかったものもあるでございましたが、先生を信仰する人は、おっしゃる通りにやって、大助かりに助かったそうでございます。
なかには二宮先生の、そのお触書を見て、直ぐに馬に乗って先生をおたずねして、その仕方を丹念に聞き取ってから、村々をお諭《さと》しになって、木棉畑をつぶし、お堂やお寺の庭までも、蕎麦や大根をお作らせなさいましたお奉行様もありましたが、下野《しもつけ》の国の真岡《もうか》近在は、真岡木綿の出るところですから、木棉畑がうんとある、せっかくのその畑をつぶして、ほかの作物を作ることをイヤがる人が多いには、先生も困ったそうでございますが、その時に先生が、それではあきらめのために、木棉畑のいいところを少し残して置いてみなと、所々へ一反ぐらいずつ木棉畑を残させてみますと、秋になって棉実《わたのみ》が一つも結ばないのでなるほどと、はじめて感心したそうでございます。
すべて、大偉人の言うことは、聞いて置かなけりゃなりません。わしらは、二宮先生のような大偉人ではございませんが、用心をしてしそこないということはございませんから、皆さん、何をさし置いても饑饉の御用心をしてお置きなさいませよ。
それには、ハト麦なんぞは至極よろしいでございます。種子が入用ならば、わしんところへ言っておよこしなさい。蒔《ま》き方がわからなければ、わしが教えて上げますよ。もし人手が足りなければ、わしが行って手助けをして上げますからね。
それからもう一つ、ジャガタラ薯《いも》というのがござんすが、あれは近ごろ南蛮から来たのだそうですが、結構たくさん取れて穀類の代りになります、あれをお植えなさい。
そうして、用心をして置いて、いざ饑饉という時には、その貯えを大切に、控え目にして食べるです。そうすれば、悪食《あくじき》をしないでも次の実りまで、きっと凌《しの》げるものでござんすよ。でござんすから二宮先生は、饑饉の年でも決して、草の根や木の皮を食えとはおっしゃいませんでした。心がけさえして置けば、どんな饑饉にでも五穀を食いのばして行けるものでございます。饑饉の時は、なんでも食べられます、食べなければならない場合もあるでございますが、少しの間はいいが、長くなると病気になります。
こういう説教を与八が試みました時に、慢心和尚が来合わせて、次のようなあいづちを打ちました。
そうとも、そうとも、与八の言うことと、二宮尊徳の言うことは間違いはないぞ、饑饉は怖いぞ、用心して五穀を貯えろよ、草根木皮は食うなよ。天保の饑饉の時、わしは江戸で見たがな、なにしろ作の本場の百姓でさえ、食う物がなくて餓え死ぬ世の中だから、町家ときては目も当てられなかったよ。その時の窮策でな、赤土一升を水一升で溶いてな、それを布の上に厚く敷いて、天日《てんぴ》に曝《さら》して乾かしてから生麩《なまふ》の粉などを入れてな、それで団子を作って食ったものもあったぞ、それから松の枝を剥いで鯣《するめ》のようにして食い出した者もあったぞ。わしも食ってみたよ。わしなんぞは腹が出来ているから、何を食っても、あんまり当りさわりということはないが、普通の人間は、たんと食えば黄疸《おうだん》のような顔色になって、やがて病気だ。この間も「救荒草木」という本を、わしがところへ持って来て見せた人がある。その本には、野生の草木で食えるものの種類を三十種も挙げて、その料理方などを書いてあったが、わしはああいうことはあんまり賛成をせんのだ。わしなんぞは腹が出来ている上に、口がこの通り大きいから、なにを投げ込んでもたいていは当りさわりなく消化するようなものだが、人間並みの人間は、人間並みの食物を食うがよい。なんにせよ、天照大神、神農帝以来、人間が選りに選り出して来た今日の五穀蔬菜というものは、人間の養いには最上無類のものさ。野草雑草も食って食えないことはないが、食わずに済めば食わずに済ますことだよ。誰も食いたくて食うわけではないが、そこだ、日頃の心がけというやつがそこにあるのだ。丹精して人間らしい作をつくり、それを丹念して囲穀《かこいこく》にして置くことだ。それが最上唯一の饑饉救済策というものだ。よくよく与八大明神の御託宣を聞いて置くがいいぞ。
それから、若い者は天保の饑饉は知っているが、天明の饑饉時代を知る者は少なかろう、おれはそれを実地に見せられてよく知っているぞ。この村で食えなくなったものが、隊を成して次の村へと流れ込んだ、流れ込んでみたところで、次の村にだって、他村に食わす貯穀があるはずはない。そこで、流れ流れて毎日毎日、千人、二千人というものが、かたまって、飢死している、そうすると、先に飢えて死んだものの肉を、あとのが切り取って食ったものもあったぞ。食うや食わぬの境になると、人間が鬼になる浅ましさ、おれはこの眼でよく見て来たぞ。そのくらいだから、盗賊が横行する、いや、人間という人間がみんな盗賊になってしまう、浅ましいものじゃ。大名の米でさえも、警護が薄いと途中で飢えたる民が襲いかかって奪ってしまう、それだから、一台か二台の車に積んで運ぶ扶持米《ふちまい》でさえ、さむらい共が四五十人して守って引かせたものだ。村々町々でめぼしい家屋敷はブチこわしがはじまる、ブチこわされる方も、はじめのうちは辛抱していたが、今度はその方で組合を作って、竹槍を構えて待ちかけ、皆殺しにしてくれるという有様だから、全く、餓鬼道修羅地獄さ。食い物がなくなると、政治も奉行もあったものではないじゃ。
だから、百姓は、平生丹精してよく作り、丹念してそれを貯えて置くことじゃ。近ごろ、節食節食と言って、なるべく少し食えということを言って歩く奴もあるが、わしらがようなものは、小食でもさしつかえないじゃ。わしらがような坊主とか、役人とか、学者とかいうやからは、そう大した体力の骨折り仕事というのはせんでも済むじゃから、そういうやからは、いわばお百姓様の食客《いそうろう》同様なものだから、なるべく遠慮して、少なく食ってもらいたい。ことにわしらがような坊主は、少々の間は、食わず飲まずでも平気でいられるくらいに慣らして置かなけりゃならぬじゃ。それで決して身体のさわりになるものじゃないのじゃ。一日一食で済まして、それで達者で長寿をした坊主もいくらもあるじゃ。東叡山寛永寺の天海和尚というのは、百三十三歳まで生きたが、これも一日一食じゃ。播州の書写山の性空上人《しょうくうしょうにん》というのが、これも一日一食で九十八まで生きたじゃ。真宗の親鸞上人《しんらんしょうにん》は九十まで生きたが、これも一日一食。伊勢の月僊和尚《げっせんおしょう》というのが八十九、鳥羽僧正が八十八、一休和尚が同年というようなわけで、こういう坊主は、いずれも一日一食同然の節食をして、それで達者で長寿をしたものだが、それは坊主だからできるので、やっぱりお百姓さんの居候であることには変りはない。お百姓というやつは、節食をしてはならない、節食をしては働けないから、うんと食うがよい。大きな口をあいて飯を食う権利のあるのは、百姓だけの役徳だと思うがいい。うんと食って、うんと働き、うんと生産をして、坊主をはじめ、役人だの、学者だの、この世の寄生虫に食わしてやってもらわなけりゃならぬ。饑饉の時は、今も言う通り、悪食《あくじき》をせず、その時は節食をして、一日にお粥《かゆ》一ぱいだけでも食って、静かに寝て体力を養っているがいい、死なない程度に生きているがいい、そのうちには凶年という年ばかりではないからな。
こういうようなことを言って慢心和尚が、与八の勧誘に補足をして村人を説得しているところへ、一人の風来人がやって来ました。
その風来人というのは、五十がらみ、小肥りに太った、笠をかぶって、もんぺを穿《は》いた旅の者らしい一人の男であります。
「わしは、武州|刎村《はねむら》というところの百姓弥之助と申しますが、諸国廻歴の途中、はからずもこのところへ立寄りまして、只今のお話を聞かせていただき、まことに結構に存じて、いたく共鳴を仕《つかまつ》りました。わしが諸国廻歴の目的も、只今の、お若衆さんと御出家さんのおっしゃったと同じ趣意の下に出発いたしたんでござりますが、なにぶん、徳が足りないものでござんすから、せっかくの志が通らず、わしが本心が通らぬのみか、到るところでばかにされて、どうもなりませぬ。ところで、只今のお話を伺ってみますと、世間にはまだ同じ志の者がある、捨てたものではない、と頼もしさ限りがございません。まあお笑い下さい、わしどもはこういう帳面を拵《こしら》えて諸国廻歴を致しております」
と言って、腰にブラ下げていた一冊の部厚の帳簿を解いて、慢心和尚と与八の前へ差出しましたから、
「それはそれは
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