当らんものだなア」
「当ててごらんなさいよ、あなたはお目が見えないから、皺《しわ》がわからないので、それで有難いのよ」
「ふん、当ててみましょうか」
「当ててごらんなさいましよ、御遠慮なく、お世辞でなく、正直な判断を聞かせて頂戴」
「ふーん、鬼頭天王のおばさんと、ほぼ同格かな、あれより少し若いかな」
「鬼頭天王のおばさんというのは、どなた?」
「うん、いや――拙者の伯母《おば》なんだが」
「その伯母さん、お幾つ?」
「そうさなあ、四十……」
「それで、わたしは?」
「それより、若いかなあ」
「有難う」
「何でお礼を言います」
「有難う」
「年を言って、お礼を言われるはずはないのだが」
「言ってみましょうか、わたしの本当の年を」
「おっしゃってみて下さい」
「酉《とり》の五十三――七月生れよ」
「ははあ、五十三」
「いいお婆さんでしょう、四十幾つかに見られて嬉しい、ついでに、わたしの人柄を言ってごらん下さい」
「人柄とは?」
「どんな衣裳をつけて、そうして、何を商売にしていますか、それを当ててみてごらんなさい」
「拙者は卜《うらない》を稽古して置かなかった。だが、お一人暮しですか、こんな淋《さび》しいところに」
「それでお察しなさいよ――わたしは尼さんなのよ」
「ははあ、尼さんですか、寂光院には美しい尼さんがいるという話だが、それが、あなたなのでしたか」
「美しいかどうか、そこは保証ができません、昔は美しかったかも知れません、なにしろ五十三ではねえ」
「尼さんにしては、粋《いき》な尼さんですね、砕けた尼さん」
「今は尼さんですけれど、前身は何だと思召すの」
「また、はじまったな、八卦人相見《はっけにんそうみ》に頼まれて来たようだ」
「では、そういう話はやめて、あなたの一代記を伺いましょう」
「長いからなあ」
「夜が明けてもかまいません」
「後刻、ゆっくりお聞かせ致しましょう、今晩は疲れておりますから、寝《やす》ませて下さい」
「そうそう、わたしとしたことが、自分ばかりいい気になって、では、お寝みなさい」
「いいですか、泊めてもらっても、あなたのお迷惑にはなりませんか」
「なりませんとも。なるくらいならばお泊め申しは致しません」
「あなた御自身はいいとしても、周囲がうるさいようなことはありませんか」
「ありませんとも。ありましたとても、そこが世捨人の強味というものでしょう、周囲などには驚きませんが、内から魔がさすのがいちばん怖いことです。あなたは、魔だと思いましたが、本当は思い違い、かわいそうなさすらい人ですから、それで大切にして上げますのよ。それはそうと、ごゆっくりお寝み下さい」
「では御免蒙りまして。飢えが満たされると睡眠の慾が昂上して来ました、もう、意地も遠慮もありません、休ませていただきます」
「さあ、どうぞ」
 そこで、侵入者は、以前の蒲団《ふとん》の中へ案内されると、忽《たちま》ちに、死せるもののように眠りに落ちてしまいました。

         六十五

 その翌朝、昨夜の侵入者と、この庵《いおり》の主《あるじ》なる若い老尼とは、お取膳で御飯を食べました。
 初茸《はつたけ》の四寸、鮭《さけ》のはらら子、生椎茸《なましいたけ》、茄子《なす》、胡麻味噌などを取りそろえて、老尼がお給仕に立つと、侵入者が言いました、
「何から何までのおもてなし、恐縮千万に存じます、それに、今になって気がつくと、昨晩、あなたはお寝みになりませんようで」
 尼さんが答えて、
「はい、寝みませんでした」
「どうも、重ね重ねお気の毒なことをしたと感じています。実は昨晩、寝ませていただく時に、それと覚らないでもありませんでしたがね、一人が寝めば一人が寝めない清浄な庵室住居を犯して、お気の毒千万とは思いましたけれども、意地にも、我慢にも、眠いものでしたから、御遠慮を申し上げる礼儀のなかったことを、お詫《わ》び申し上げます」
「いやにお固いのね、一晩ぐらいあなた、寝まなくったって何ですか、おかげで昨夜はすっかり、為《な》すべき仕事を為し終えて、気がせいせいしているところです」
「ははあ、為すべき仕事とは何ですか、隠遁生活にも内職があるものですかねえ」
「ありますとも、長い間の書物の校合を、昨晩すっかり済ませてしまいました」
「書物の校合――では、あなたは女学者なのですね」
「女学者はいいわね」
「でも、書物の校合などは、相当の学力がなければ出来ることではないでしょう。いったい、何の書物ですか」
「平家物語」
「平家物語をね――平家物語の校合を、ここで一人でなすっていらっしゃるのですか」
「はい、静かでよろしうござんすからね、それにところがところでしょう、気が乗りましてね、どうかすると自分までが書物の中の人となってしまいます」
「それは風流な御生活ですな、世を捨てたとは言い条、文字を弄《もてあそ》ぶようでは、まだ本物ではありませんね」
「おなぶりになってはいけません。本来、わたしは出家する気でこの姿になったのではございませんから、あなたのおっしゃる文字を弄ぶ方が本職で、お勤めは附けたりのようなものなのです」
「そうですか、いや、それはどちらでも拙者の利害にはなりませんよ。いやどうも、御馳走さまになりました、おかげさまで飢えを満たし、雨露をしのぎ、温かな一夜を恵まれ、これで生き返った心持です、この感謝の心の消えないうちに、お暇《いとま》いたしましょう」
「まあ、お待ち下さいませ、左様にお急ぎにならずともよろしいでしょう。そうして、あなたは、これからドチラへお帰りになりますの」
「左様、関の清水か――山科谷へ」
「そこへお帰りにならねばならぬ義理がおありなのですか」
「義理で帰るというわけではないのです、その辺へ落着くより仕方がないじゃありませんか、いまさら壬生《みぶ》へは行けないし、そうかといって十津川入りもできまいから」
「帰らなければならない義理がおありにならないならば、そうして、ドコにおいでになっても、お宅で皆様が御心配にならない限り、ここにおいでになってはいかがでございますか」
「それはまことに御念の入った御親切です、拙者のような浮浪人に、いつまでもここにおれとおっしゃるのですか」
「あなたの方でおさしつかえのない限り」
「夢ではないでしょうかなあ、こんな静かなところに、しばしなりとも、このうらぶれの身を休ませていただき得れば、夢にもまさる幸福なんですが、それで、あなたは後悔をなさるようなことはございませんか」
「懺悔《ざんげ》をしきった者には、後悔はないはずでございます、どうかお心置なく」
「はてな」
「何を考えていらっしゃいます、あなたは、夜具が一組しかないところへ居候《いそうろう》に来ては気の毒だと、そんなことを考えていらっしゃるのでしょう、それは御心配御無用よ――ちゃあんと融通の道はありますから」
「でも、危ないですよ」
「何があぶないものですか、あなたこそ、目も見えないくせに、足元があぶないとは、こっちから言って上げたいことなのです」
「では、お言葉に甘えましょうかな」
「そうして下さい、あなたに不自由をおさせ申しは致しません、その代り、わたしの仕事もお手つだいをして下さい」
「拙者の身で叶《かな》うことならば何なりとも」
「まあ、雨が降り出してきましたよ、これこそ本当にやらずの雨、今日は一日、あなたのお身の上話を承りましょう、お望みならば、わたしの前身……鬼でも蛇でもございませんが、お話し申し上げれば西鶴の種本になるかも知れません」
「しからば――」
 侵入者は、ついに客人としてもて扱われることになりました。無制限の逗留と、無条件の寄食を許されて……

         六十六

 神尾主膳は、このたびの新しい使命の下に、いよいよ京都へ行くことにきめて、その暫時の名残《なご》りのような意味で、江戸の市中を一通り見て置こうと思いました。
 そもそも、主膳がこのたびの使命というのは、前にしるしたように、全く無任所として、京都の鷹ヶ峰に住っておればいいということだけです。そうして遊びたいだけ遊んで、その見たところと、聞いたところと、感じたままを、江戸のある方面へ知らせればいいというだけの役目であります。つまり情報部とか、隠目附《かくしめつけ》とかいうような意味、悪く言えば一種の高等スパイのようなものらしいが、当人はそうは思いません。
 まあ、昔の石川丈山という男の役どころをつとめると思えばいい。それに主膳はいささか気をよくしているのですが、この丈山は詩は作れない、歌は詠《よ》めないけれど、風流の道は心得ている、この風流というのが、御承知の通りの悪風流である分のことです。この男の使命を、なぜ石川丈山にたとえたかということは、当人にもまだよくはわからず、これに嘱する人もくわしくは説明しませんでした。スパイである、諜者である、という名よりは、詩仙堂の隠者になぞらえる方が聞きよくもあるし、当人の気持もいいというものです。
 そういう意味で、しばらくはまた江戸の地を離れなければならない。長州征伐に行く軍人と違って、これは必ずしも生還を期せずという出征ではないから、これが江戸の見納めという意味にはならないが、それでも風向きの都合上、しばらくは帰れないと思わなければならない。よって神尾は、江戸の市中を一通り見学して置きたいという気になったものでしょう。
 江戸に生れて、江戸を見ない人はいくらもあるものです。江戸も、本場を知って場末を知らない人もあれば、場末にいて盛り場を知らない人も、いくらもあるものであります。
 神尾主膳も、祖先以来の江戸っ子でありながら、江戸というものの地理の多分を知りません。あるところは知り過ぎているが、知らないところは、他国の人の知らないよりも知らない、そういう意味に於て、江戸の市中の再吟味ということが大切だと思いました。たとえば今日、洋行する人が、あわてて日本の内地の名所見物をして置いて出かけるというのと、同じような筋合いになるでありましょう。
 このたびの就職から、新しく雇い入れた渡り者の年寄の仲間《ちゅうげん》を一人従えて、市中見物の門出に、根岸から、広小路の方へ出て見ると、食傷新道《しょくしょうしんみち》に夥《おびただ》しい人の行列がありました。無数の人が長蛇の列をなして、町並の軒下に立って、三丁も五丁もつながっている。
「何だい、あれは」
「どんどん焼を買いに出たのでございます」
「どんどん焼?」
 神尾が立ちどまって注視しました。どんどん焼を買うべく、この早朝から、この人出。タカがどんどん焼ではないか、神尾には何の意味だかわからない。それを渡り者の老仲間に心得があると覚えて、語り聞かせることには、
「近ごろは、ああして、どんどん焼が御大相に売れるんでございます、朝早く行きませんと売切れになっちまうんでございまして、それであの通り行列がつづきます」
「ここのどんどん焼はそれほど名物なのか、特別に旨《うま》いのか」
「いいえ、べつだん旨いというわけでもございませんし、近頃の新店《しんみせ》で、べつだん名物というわけでもございませんが、変な風説が起りまして、近ごろは、ああやって飲食の前へ人立ちをするのが流行《はや》り出しました」
「変な風説というのは、いったい何だ」
「なあに、つかまえどころがあるわけではございませんが、つまり、関東と、関西と、近いうちに大合戦がはじまる、いつ、薩摩や長州が、江戸へ攻め込んで来ないものでもない、そう致しますと、食糧がひっぱくになる、軍の方の兵糧には困りませんが、一般市民が食うに困る、米も出廻らなくなるし、麦も来なくなる、そういうわけで、どんどん焼が急に売れ出すようになりました」
「ふーむ」
と神尾主膳は、まだその行列をながめて突立っている。
 神尾が動かないから、渡り者の老仲間も動くわけにはゆかない。テレきってお傍についていたが、やがて、
「一つ買って参りましょうか」
「馬鹿!」
と、眼の玉の飛び出すほど、渡り者の老仲間が叱り飛ばされました。
 渡り者の老仲間は、せっかく親切
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