めんと、書棚に立った時から、この若々しい老尼の頭に魔がさしました。
というのは、参考書として、仏典の字引を求めて来るつもりのを、ついして、机の上に持ち来たしたところを見ると「古今著聞集《ここんちょもんじゅう》」。
しかも、手に当った丁附《ちょうづけ》のかえしが巻の第八とありましたことから起ったのです。
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「ある人、大原の辺《ほとり》を見ありきけるに心にくき庵ありけり、立入つて見れば、あるじとおぼしき尼ただ独《ひと》りあり、すまひよりはじめて事におきて優にはづかしきけしきたり、しかるべきさきの世のちぎりやありけん、又此人をたぶらかさんとて魔や心に入りかはりけん、いかにもこのあるじを見すぐして立ちかへるべき心地せざりければ……」
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これから平家物語が、著聞集に乗換えられてしまったのは、魔の為《な》すことというよりほかはありますまい。かくて心が乱れそめて、
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「ちかくよりてあひしらふに、この人思はずげに想ひて、ひきしのぶを、しひて取りとどめてけり、あさましう心うげに思ひたるさま、いとことわりなり、何とすとも只今は人もなし、あたりちかく聞きおどろくべき庵もなければ、いかにすまふとてもむなしからじと思ひて、ねんごろにいひて、つひにほいとげてけり、力及ばで只したがひゐたるけしき、ひとへにわがあやまりなれば、かたはらいたき事かぎりなかりけり、したしくなつて後、いよいよ心地まさりて、すべきかたなかりければ、さてしも、やがてここにとどまるべきものならねば、よくよく拵《こしら》へ置きて男帰りにけり、さてまた二三日ありて尋ね来てみれば、かのすみかもかはらであるじはなし、かくれたるにやとあなぐりもとむれども、つひに見えず、さきにあひたりしところに歌をなんかきつけたりける、
世をいとふつひのすみかと思ひしに
なほうき事はおほはらのさと」
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それから物ぐるわしくなったこの若々しい老尼は、六道も灌頂も打忘れて著聞集に引かれて行くことが浅ましい。
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「山に慶澄註記といふ僧有りけり、件《くだん》の僧の伯母《をば》にて侍《はべ》りける女は、心すきすきしくて好色はなはだしかりけり、年比《としごろ》のをとこにも少しも打ちとけたるかたちをみせず、事におきて、色ふかく情ありければ、心うごかす人多かりけり、病を受けて命をはりける時、念仏すすめければ申すに及ばず、枕なるさほにかけたる物をとらんとするさまにて手をあばきけるが、やがて息たえにけり、法性寺辺に土葬にしてけり、其後、二十余年経て建長五年の比《ころ》、改葬せんとて墓をほりたりけるに、すべて物なし、なほふかくほるに、黄色なる水のあぶらの如くにきらめきたるが涌出《わきいで》けるを、汲みほせどもひざりけり、その油の水を五尺ばかりほりたるになほ物なし、底に棺ならんと覚ゆる物、鋤《すき》にあたりければ、掘出さんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを手を入れてさぐるに、頭の骨わづかに一寸ばかりわれ残つてありける、好色の道、罪ふかきことなれば、後までもかくぞありける、その女の母も同じ時に改葬しけるに、遥かに先だち死にたりける者なれども、この体かはらでつづきながらにありける」
[#ここで字下げ終わり]
そこへ、また一つの魔がさして来ました。今までのは、偶然がもたらした内からの魔でありましたが、今度は外からさした魔であります。
「あれ、何かさし入りました」
書巻の眼は鞠《まり》のように飛んで、戸締りの桟《さん》に向ったのは、その戸の外で、縁の近くに忍び寄った、外からの何者かの気配があるからです。
昨晩、花尻の森から人魂《ひとだま》が飛んだのも、ちょうどこの時刻でありました。
六十三
今までは、内からさした魔であるのに、こんどのは、まさしく外からさした魔でなければならない。
「あっ!」
と、総身《そうみ》に水をかけられたように、立ち上った途端に、硯《すずり》の水をひっくり返してしまいました。机の上に書きさしの紙がべっとり、せっかく六道能化《ろくどうのうげ》まで来た校合の上に、硯の海が覆《くつがえ》って、黒漆の崑崙《こんろん》が跳《おど》り出します。
あわててそれを拭き、それを取りのけ、それをあしらい、しているうちに、また机の前へ坐り直しはしたが、ぞくぞくとして寒気《さむけ》がこうじ、肌がこんなに粟になる。
おぞけをふるうという心持。誰ぞ外へ人が来たらしい。
見廻すこの室の内、僅かに八畳の間、周囲の襖《ふすま》は名ある絵師に描かせた花野原。
絵に見る花野原をかきわけて、いまにも人が出そうでならぬ。
これではいけない、多年の平家物語の校合《きょうごう》も、せっかくこの六道能化まで来たのに、あとはめちゃめちゃ、ここでブリ返して、こんなに魔がさすようではならない。
老尼は、われと気を鎮めてみたが、魔障わが精進をさまたぐるか、と言って躍起となる意気もないようであります。というのは、この老尼は修行のために、ここに静処を求めたのではなく、狂言綺語《きょうげんきご》の閑居を楽しまんとする人であったからでしょう。様こそ法体にこしらえてはいるが、これも仏道精進のためというよりは、世間体をのがるるには、この様が最も許されやすいという身勝手から出でたもので、要するに趣味の人であって、修道の人でないからでしょう。五十路《いそじ》を越えて、まだこんなに水々しいところが何よりの証拠で、都にあって祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声を聞くよりは、ここに閑居して沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色の衰えざるを見ていたい。
そういう未練な仇《あだ》し心が、この場で、内外から魔の乗ずる隙を与えた、いわば自分の造りおけるわなに、自分がかかっておびえるようなものです。
でも、外からさした魔は、それっきりで、あとは音沙汰《おとさた》がありません。周囲を見廻す。秋草の中に何者かがおりそうな気持は変らないが、そうかといって、外からねらわれる心配さえ解ければ、内からさして来る魔の手は、いくらでも取消しの道はつくというものです。なんにしても、今晩はめちゃめちゃ、いやいや、昨晩もあの時間からめちゃめちゃでした。花尻の森から人魂《ひとだま》が飛んだというあの噂を聞いて、それからいい心持はしなかった、あれを、知らず識《し》らず今晩まで持越したもの、こんな晩には早寝に限ると気がついたが、いま寝についても早寝にはならぬ。とにかく、さんざんの体で、この場の校合はあきらめ、あとの補修は明日のこと――
そう思って、書斎の次の間は寝間、そこにしつらえてある夜のものに埋もれて、今日の厄落《やくおと》しを終ろうと、すらりと立って、片手には丸形の行燈《あんどん》を携え、秋草の襖へ手をかけると、なんとなく心が戦《おのの》く、その気持を取直して、これもスラリと襖をひらき、誰に憚《はばか》ることもない己《おの》が独自の世界の中に、一足踏み入れると……
「おや」
と言って、その取落そうとした行燈を投げ込むようにつきつけると、侵入すべからざるところに侵入者があって、自分の寝間の中に、しかも、こちらが宵の間にほどよく敷いて置いた夜具の中に、誰かが寝ている。
枕許には大小が置いて、その上に黒い頭巾が投げ出してある。そこで若い老尼は全く立ちすくみました。もう、あっという言葉も出ません。
ところが、この奇怪きわまる侵入者は、苦しそうな声を出して、
「御免下さい、あんまり疲れましたから、それに恥かしながら飢えに堪え兼ねて……」
と言いました。
「え、何でございますか」
無意識に若い老尼が言葉を返しますと、
「お腹がすいたのです」
こいつ、あの餓鬼草紙の二の舞をやっている。餓鬼草紙から脱け出した老婆は、大釜を背負い込んでいたが、この餓鬼は釜の代りに大小を持っている。
「それは、お困りでございましょうがなあ」
「疲れはしたし、お腹はすいたし」
どうも、さもしい。お腹がすいた、お腹がすいたと、あまり繰返さないがよろしい。武士は食わねど高楊枝とも言い、腹がへってもひもじうないと言う。それだのに……
この物騒な侵入者は、物騒なわりに気が弱過ぎる。
作り声ではない、ほんとうに疲れきってもいるし、飢えきってもいるし、或いは疲労以上の、飢餓以上の、瀕死《ひんし》の境にいるのではないかとさえ見られるのですから、老尼にも一点、憐憫《れんびん》の心が起ってみると、恐怖心の大半が逃げました。その逃げたあとへ、若干の勇気というものが取戻されたものですから、やや本心にも返ったし、本来、こうして、この年で、水気《みずけ》たっぷりな侘住居《わびずまい》をしているくらいですから、心臓の方も、さのみ老いてはいなかったのでしょう。
「それはお気の毒な、まあ、ちょっとお起きあそばせ、おぶ漬を一つ差上げましょう、何ぞ粗末な有合せで」
「そうですか、それはかたじけないです、では、御免を蒙って」
と、寝ていた弱気の侵入者は起き直りましたが、ほんとうにこれはこの世の人ではない、病みほうけ、疲れきって、その様、全く哀れげに見えるものですから、老尼はいよいよ気になりました。
侵入者は、起き直ったとはいうものの、立って挨拶をしようではありません。蒲団《ふとん》の上に突伏《つっぷ》すように坐り込んだなりで、物を考えているよりは、哀れみを乞うているに似たこの姿がいじらしい。
侵入者をいじらしがるわけもないものだが、老尼は、もうこっちのものだと思いました。傷ついた虎は吠える犬にもかなわない、という見極めがすっかりつきました。
六十四
それからしばらく、侵入者は、さっぱりとした取合せのよいお膳について、箸《はし》を与えられました。その傍らにお給仕役をつとめながらの若い老尼が、あやなすように話しかける。
「あなたは、どちらからおいでになりましたの」
「関の大谷風呂に暫く逗留しておりました」
「お国はドチラですの」
「東国の方ですがね、諸所方々をフラつきましたよ」
「お目がお悪い御様子ですが」
「はい、目がつぶれてしまいましてね、つまり天罰というやつなんですよ」
「どうして、そういう目におあいになりましたの」
「十津川の騒動の時にやられました」
「ああ、あの天誅組《てんちゅうぐみ》の騒動に、あなたもお出になりましたか」
「はい、十津川では天誅組の方へ加わりました、中山卿だの、それから松本奎堂《まつもとけいどう》、藤本鉄石なんていう方へ加わりました」
「まあ、それは頼もしい、天朝方でございますね」
「なあに、頼もしく入ったんじゃありませんよ、頼まれたもんですからツイね、つまり、人生意気に感ずというわけなんでしょう」
「その前は、どちらに」
「その前は壬生《みぶ》におりました」
「まあ、壬生浪《みぶろう》……」
「恐れるには当りませんよ、これもふとした縁でしてね、好んで新撰組に加わったわけじゃありません」
「では、あなたはずいぶん、お手が利《き》いていらっしゃるのね」
「剣術が少し出来るんでね、まあ、それで身を持崩したようなものです」
「よくまあ、でも、その御不自由なお身体《からだ》でねえ」
「こんな不自由な身で生きているというのが不思議なんです、いいや、不思議なんて、そんな洒落《しゃれ》たことではないです、恥さらしなんです、業さらしなんです、まあ普通の良心を持っている奴なら、とっくに、どうかしてるんですがね、こんな奴は、天がなかなか殺さないんです、つまり、なぶり殺しなんですね、あっさりと殺してしまうには、あんまり罪が深い」
「そんなことはありませんよ、自暴《やけ》におなりになってはいけません、あなたなんぞは、お若いに、これからが花ですよ」
「ふーん、これから花が咲くかなあ」
「咲かなくって、あなた、どうするもんですか、わたしなんぞごらんなさい、ことし、幾つだと思召《おぼしめ》す」
「左様、女の年というものは、若く言って叱られる、老《ふ》けて言うと恨まれる、
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