今夜は一晩、寝ずに考えてやるぞ、と七兵衛が、じっと思い入れあった時に、どやどやと皆が出動して来ました。
三十二
その晩、七兵衛は、無名丸の方へ廻って船番がてら、船で一夜を明かすことになりました。
広い船室の中に、たった一人で、思う存分考えてやろうとしたのは、今朝、天幕の中でじっと見据《みす》えた、あの体力のハチきれそうな、おぼこの娘の身の上のことでした。
それを考えると、自分というもののこし方も、おのずから考えられるので――
「ああ、おれも考えてみると、女房では苦労をさせられたんだなア、苦労をさせられたというより、女房のために一生を誤られたと言ってもいいかも知れねえ。なあに、そんなことがあるものか、自分というやつの手癖足癖が悪いから、こうなったに相違ないが、嬶《かかあ》が良かったらこうならずに済んだかと思われるのも、まんざら愚痴じゃあるめえ。あいつお土産つきでおれのところへ来やがったんだが、そいつはおろしてしまって、次のやつが出来ようという時に、男と逃げた、それから、おれがグレ出したというようなもんだが、女というやつは、どっちへ廻っても油断がならねえなあ。その後、おりゃ、女という方にはさっぱり綺麗に、よくもここまで通して来たもんだ、悪い事ぁするが、その悪いことも性分でやってるので、意地でやるわけじゃねえんだ、因果なことに、盗むのが面白くって面白くって、世間が隙《すき》だらけで隙だらけで、だまって見ていられねえから、ついちょっと手が出る、手が出ると、足が物を言うので、ツイツイここまで盗みを商売にしては来たものの、その上り高で、道楽を一つするじゃなし、お妾《めかけ》を一人置こうじゃなし、時たま旨《うめ》え酒を飲んで、旨え物を食ってみるくれえが関の山なんだ。女房のほかには、女てやつにさっぱり慾がなかったなあ、今日までそれで通して来たんだ。考えてみると、おれは盗人《ぬすっと》さえしなければ、聖人のようなものだ、盗人にならなけりゃ、相州の二宮金次郎になっていたかも知れねえ。だが、おれの初手《しょて》の嬶は、あいつは今どうなっていやがるかなあ、嫁入前に男をこしらえて、お土産つきで来るような奴だから、娘時分には、男も一人や二人じゃなかったろう、どうせ、水呑百姓のおれんとこへ、まあ、鄙《ひな》には珍しいというくらい、渋皮のむけた奴で、おれのところへ来るのだから、何か仕くれえ[#「仕くれえ」に傍点]があったに違えねえ。おれも面白くねえから、あんまり大事にしてやらなかったが、やっぱり前の男と切れなかったのか、また別のをこしれえやがったのか、ああして追出《おんで》てしまやがって、その後は、さっぱり消息《たより》を聞かねえ、聞きてえとも思わねえし、聞きたくもねえのだが、ロクなことはあるめえよ、本木《もとき》にまさる末木《うらき》なしでなあ、人間、一ぺん夫婦となった以上は、どっちにどういう間違いがあっても、離していけず、離れていけねえ、間男《まおとこ》をしようとも、やくざをしようとも、そりゃ亭主の器量が足りねえんだとあきらめて、嬶は免《ゆる》してやることだ、一生可愛がってやることだ、おれはそう思うよ。あの時に、おりゃ、もう少し嬶を可愛がってやるんだっけ。苛《いじ》めもしなかったがな、面白くねえから、いい顔を見せなかった、朝晩いい面を見せられなけりゃ、女房は辛いよ、女房だけが悪いたあ言えねえ、亭主にそれだけの徳がねえから、女房が悪いこともするということになるんだ。だから、若い娘にはいい亭主を持たせてやりてえ、なるべく早く、なるべくいいところへ、物心のつかねえうちにかたづけてやるのが、年寄役のつとめなんだ、いい御亭主になれなかった罪滅ぼしに、おれは、せめていい世話人にだけはなってやりてえ。さあ、その手詰めの試験台があの娘だ、あの娘を罪滅ぼしの試験台に、おれは仲間での出雲の神様になりてえ、そうでなければ浅草の粂《くめ》の平内《へいない》だ、おれをふみつけ[#「ふみつけ」に傍点]さえすれば、男女の縁は結んでやる、とこういう功徳の神様になって、罪滅ぼしをやりてえもんだが、さて、その小手調べが、どうなるものかなあ」
七兵衛は、こういうことに思い耽《ふけ》って、早速明日から、この島のうちで、誰にあの娘を授けてやったらいいか、その品定めにとりかかろう、物好きな品定めではない、当りがついたら、いやおうなしに縁を結ばせて、あの娘の持主をはっきりきめてしまうのだ。
こういう心持で、船の中の乗組、船頭、水手《かこ》、楫取《かんどり》のすべての面を頭に浮べたが、どうも考えてみただけでは、これはと思わしい相手が思いつかない。あれは実直だが、老人だし、二十、三十の若い者があるのに、四十がらみの船頭にも持って行けないし、若いのをへたに選んだ日には、一方に恨みの種を蒔《ま》くようなものだし、はてさて、一同のうちに誰を見立てたものか、ほとほと七兵衛の頭が乱れます。
冗談じゃない、ではいっそ、七兵衛おじさん、お前の物にしちまったら……もともと、お前に授かったのじゃないか――全く冗談は言ってもらいますまい、第一、この坊主頭にてえして、そんなことができますかい、それに、今日まで男後家を立て通して来たといえば二本棒だが、聖人の道を守って来たこのおやじを、今となって人間道に引卸すなんては罪だよ、考えてもいけねえ、そういうことは口走るもんじゃねえよ、と七兵衛は自問自答して、厳粛に打消してしまったりしていましたが、一晩考えてみても、なんら目当てはつきません。
物事はそう取越し苦労ばっかりするもんじゃねえ、神仏がいいようにして下さらあ、縁は異なもの味なもので、人間業に行って行かねえやつなんだ、早い話が、甲府勤番支配駒井能登守が、この大海原の真中の離れ島の椰子の木の下で、おれの娘分のお松と出来合うなんていうことが、仏様だってあらかじめ御存じのある事じゃあるめえ、それと同じことに、あの娘だって、どうしようの、こうしようのと、おれがここでやきもき思ったからとて、どうなるものか、冗談は言いっこなし、いい年をして、そんなことができるかい、そんなことをしようものなら、みんなの示しがつくと思うかい、なに、駒井の親玉でさえもあれじゃないか、お前のはそれよりもっと素姓がいいんだぜ、村方総出で許されて来たんだぜ、あの時、村方の者が何と言った。
あの村のならわしで、いったん男に肌を見られた女は、もうよそへお嫁に行くことはできない。
村の昔からの習わしでございまして、娘のうちに、男に肌を見られたものは、どんなに身分が違いましょうとも、年合いが違いましょうとも、その男よりほかへは行ってはならねえことになっているのでございます、見たもの因果、見られたもの因果でございまして。
そういう習慣でございます、そうしてその娘は、あの場で、こちら様に、すっかり見られてしまったんでございますから、もう嫁にやるところもございません、婿《むこ》を取るところもございません。
それのみじゃございません、怪我にでも一人の女の肌を見てしまったものは、否が応でも、その女を自分のものにして、面倒を見なけりゃならねえおきて[#「おきて」に傍点]になっているのでございます、それをしなけりゃ村八分、いや、荒神様の怖ろしい祟《たた》りがあるのでございまして。
わしらが方では、名主様のお嬢様がお湯に入っているところを、雇人の作男が、ふと見てしまったばっかりに、そのお嬢様は、隣村への縁談が破談になり、その作男を夫に持たなければならなくなってしまったことなんぞもございます。
何を申しましても、村の昔からのおきて[#「おきて」に傍点]なんでございまして、このおきて[#「おきて」に傍点]を破ると、孫子の代まで恐ろしい祟りがございます、そうして、現在この子は、あなた様のために、あの通りの目に会いました、善い悪いは別に致しまして、これがこの子の運でございます、もうこの娘は、あなた様よりほかに面倒を見ていただく人はございませんから、御迷惑さまながら、どちらへでもこの娘をお連れなすっていただきたいものでございます。
もし、あなた様が、この娘の面倒を見て下さらなければ、この娘は死ぬよりほかは行き場所のない子なんでございます。
そういうわけで、押しつけられたのだ。
そりゃ、それに違えねえけれど、それは土地の迷信というものだ。土地の信仰を無にはできねえから、一時、おれはそれに随って来たが、船つきの都合で、暫く方向をかえて、疫落《やくおと》しをやってから、娘をまた里方へ帰すつもりで引受けて来たんだぜ、それをそのままいい気になって、わがものにしてしまおうなんて、考えても考えられねえことだ、縁というやつは、なるようにしかならねえものだ、神仏にお任せ申して置きあ、いいようにして下さらあ、人間、人のためを思うのはいいが、思い過すと、かえってためにならねえ、人間の運というものは、人間にはわからねえんだ、縁は異なもの味なものさ……いい人はいいようにして下さらあ、納まるべきものは納まるところへ納まるさ、そう、くよくよしたもんじゃあねえよ……
三十三
こういう意味で七兵衛は、この問題に未解決の解決を与えて、それでひとまず打切りとしました。
朝起きて見ると、兵部の娘が、思いの外にきちんとした身だしなみで、パンとお茶とを持って来て、七兵衛のために朝飯をととのえてくれました。マドロスはと見ると、一心に船の掃除をつとめている。この二人は、ほとんど常住の船の番人です。上陸してその部署につかないこともないではないが、船を守ることを本業として、陸に来ることは、ただ自分としての割当ての縄張を見て置くだけといったようなものです。
見るに、気のせいか、マドロスも、ウスノロぶりがだいぶ引きしまってきたようです。兵部の娘の何となく甲斐甲斐しく見え出したのと同じ見えですが、見損いでない限り、二人の気分の改まりは、環境のもたらす一つの好感化かも知れません。というのは、今や他の船員はことごとく陸上に安定の地を求めて一生懸命です。が、この二人だけは船に置かれて、これまた、船を安定の地として残されている。周囲の嫉妬もないし、憎悪《ぞうお》も遠のいたし、そこで心の僻《ひが》みが取れたせいもありましょう。それともう一つは、この一組の仲は、あらゆる船員の憎悪の的でありましたが、七兵衛だけは異った同情を持っていたのです。マドロスが検束なきふしだらで、この娘一人を独占し、女も女で、人もあろうに、あの眼の碧《あお》いウスノロのどこがいいのだと、さげすまない者は無いが、さて、これほど侮られ、にくまれながら、この二人の存在を如何ともすることができない所以《ゆえん》は、船の舵《かじ》をこの男が握っているからで、この男無き限り、他の船員に、まだ知らぬ大洋を安全に行き得る自信がない。他のあらゆる事情に於ては否定すべき存在であるのに、そのことのただ一つの技術のために、彼の不検束が許されている。それが許されている間は、女のふしだらもまた許されている。こういった唯一の条件の下にのみ、二人の存在は許されているのですから、その以外には、あらゆる冷たい眼を向けられているのに、ひとり七兵衛だけは、二人の間を、一種の同情を以てゆるしておりました。
出来ないうちはともあれ、出来た以上は仕方がない、出来たにしても、どちらか一方に不満がある時は、またそれはどうにか手段があろうけれど、毛唐であれ、ウスノロであれ、出来てしまっている上に、二人とも、憎くない、好き合っているということになってみては、もう、文句の無いところだ、許してやるさ、明るく二人を扱ってやることさ、少なくとも、冷たい扱いをしないで可愛がってやるがいいさ……こういうように、同情心を以て対するものですから、二人も、七兵衛の温かい心に非常な感謝の念を持っているのです。
この感謝の心が、かくも行動となって現われて、七兵衛に対する限り、もてなしぶりが違うのです。そこで二人も七兵衛の来ることを喜ぶし、七兵衛もまた、二人以外の船の目附
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