《めつけ》としては、その老巧から言っても当然その人ですから、ほとんど隔晩には船へ泊りに来て、船は、今やこの三人だけの世界のようになっているのです。
時たま、田山白雲が、船を見舞に来ることもあるが、これはウスノロにとっては最も苦手で、この人が来るとウスノロは、船室の中にすくんで扉を閉して出て来ません。兵部の娘の姿が見えると、白雲が何かとからかうものだから、娘も恥かしがって、なるべく姿を見せないようにしている。それだから船も白《しら》けて、さすがの白雲も、ここへやって来ることに気が向かない。画の資料を取寄せる際の極めて必要の場合でない限り、船へ来ることは稀れです。
駒井甚三郎も、最初のうちは、ちょくちょく来て見たけれども、これは、二人を叱りも、からかいもしないけれども、二人の方で気が置けて、やっぱり姿を見せないことにつとめているし、駒井もまた、二人の存在を無視して、仕事を片づけては行くものですから、ほとんど没交渉のようなものです。それさえ、この数日間は姿を見せない。毎日一度は来た駒井船長が、船へ姿を見せないことによって、陸の方の事務がそれだけ忙しいことがわかります。忙しいというよりは、それは、あの晩の事あって以来のことですから、お松を必要とする限りに於て、駒井はその新館の一室から、助手を手放すことを好まない。ほとんど終日を二人は、一室のうちに扉をおろし、カーテンを卸して研究に耽《ふけ》ることさえあるのです。このごろは、開墾地の見舞をさえも怠りがちになることすらあります。
「船の中でも、そうでしたが、よくまあ、あれだけ根《こん》がつづくものですねえ、朝から晩まで本を読んで、調べものをなさって、それでお飽きになるということがない、お手助けをなさるお松さまも、学問がお好きの道なればこそで、ほかの者ではつとまることではございません、殿様もよく勉強をなさるが、お松さまの仕事も、ほかの人でつとまりっこはない、お好きの道とは言いながら、よくもあんなに精がつづくものでございますね」
と、無邪気なお喜代が、同情のあまり、七兵衛に向って感歎して言いましたが、七兵衛は、
「人間、好きな道には命さえ投げ出すよ、仕事というものは、外《はた》で人の見るほど苦になるものじゃない」
駒井がここへ来て、新しい研究に熱中の度を加えたとの評判は、お喜代の眼にばかりではない、誰の眼にも、舌を捲いて感歎するものがありましたけれども、それを何でもないことに解釈するのは、七兵衛入道ひとりだけに過ぎません。
三十四
神尾主膳は、上野へ行って輪王寺の門跡について、覚王院の義観僧都《ぎかんそうず》を訪ねましたけれど、その日は面会ができませんでした。
それでも、ひるまずに竜王院の執当をたずねてみたが、それもおりから不在とのことです。
そこで、憤然として山を蹴って出づべきだが、今日の主膳は、左様な侮辱にひるまないで、更に、輪王寺の重役、鈴木安芸守《すずきあきのかみ》をたずねて、ここでは意外の珍客としてもてなされたものだから、いくらか溜飲を下げて、そこで、久しぶりに安芸守信博と対面をしました。
本来、今の神尾の身で、供もつれずに、覚王院や竜王院を突然に訪ねてみたところで、猊下《げいか》へ通すまでもなく、玄関子がよろしく取計らってしまうことは、わかりきったことで、神尾主膳としても、その辺の常識は無ければならないのですが、いささか覚悟の前であったのでしょう、そこで山に於ては、前二者に次ぐ役人としての有力者、鈴木安芸守にぶっつかると、直ちに諒解《りょうかい》されたのみか、意外の珍客としてもてなされる気色さえあったものですから、神尾も、こうなければならないと、昔の自尊をいささか取戻したらしい。それも、一つは安芸守自身が居合わせて、取次から、珍しくも神尾の名のりを聞いたものですから、それでこの良会があったもので、さもなくば、やはり玄関子の取計らいを蒙《こうむ》ったに違いないと思われる。
今の神尾は、人に訪ねられる身分でなく、ましてや人を訪ぬる身でない。悪友以外にまじめに訪問を試みたということは、甲府勤番の役向を別としては、何年にも絶無のことでありました。
それでも覚王院に於ても、竜王院に於ても、あえて癇癪《かんしゃく》を破裂させなかったというものは、本来、今日は私心あっての訪問ではない、いささか誠意あっての義勇心(?)といったものから出でたのですから、私の侮辱に平然として屈せぬ面の皮がありました。
役の出先、裃《かみしも》をつけたままで鈴木安芸守が、神尾主膳に対面して、
「これはこれは神尾主膳殿、珍しいことではござらぬか」
「いや、津の国の、何を申すもお恥かしい次第だが、今日、かくの通りにぶしつけに推参いたしたのは」
先以《まずもっ》て、財物の無心に参ったのではござらぬという安心を、先方に与えなければならないほど、神尾の立場は気が引ける。
「その後、お噂《うわさ》を承るのみで、一向に御消息を存ぜぬことでしたが、御無事で何よりめでたい、どちらにお住いでござるか」
安芸守の言うところには温か味がある、それが何かしら神尾を和《やわ》らかにするものがありました。この安芸守は年配に於て、十も主膳の先輩ではあるが、旗本としての門地は、今は知らないが、以前は遥かに神尾より下でした。今の神尾としては、誰ひとり振向くものもなし、振向くものの面《かお》は冷たいと思って、僻《ひが》むところを、こういうふうに温かに取扱われると、悪い気持はしない。まして、たった今、覚王院や竜王院で、お取計らいを食って出て来たその余勢ですから、神尾もここで、故旧になぐさめられるような温かな味、近来受けたことのないものを受けました。
「いや、ドコにいると名乗るほどの安定はない、刑余の亡命者でござるがな、今日は、どういうものか、虫の居所が少し違っていると見えて、じゃんじゃんの鐘を聞くと、急に上野の地が恋しくなったようなわけで、山へ登ってみましたよ。とりあえず、竜王院と覚王院をたずねてみたが、見事な門前払い、なるほど、今の神尾ではかくもあらんかと腹も立たなかった、今日という日は、妙に虫の居所が辛抱強い、それにも屈せずして御門を叩いてみると、ここの御門前は極めてすべりがよろしい、かくばかり滑《なめ》らかに通されて、温かいお言葉に接することは、神尾の身にとって、近ごろ絶えて無いこと、よろこばしう存ずる。ただし、好意に甘えて、御多用の時間を長くおさまたげすべきではないから、手っとり早く申し述べたいが、いったい、今の徳川の天下は、どうなっているのでござる、これから先々、どうなるというのでござる、それを、一言、お洩《もら》しが願いたいのじゃ」
神尾としては、今日はまた舌も存外滑らかで、情理明晰《じょうりめいせき》にすらすらと述べました。
「何かと思えば、改まった御質問、さもありなん御心底もお察し申すが、なにしろ、そのことは重にして大、なかなかここで寸秒の座談に尽すというわけには参らぬ、拙者も門跡へ出仕の身でござるによって、ただいま打寛《うちくつろ》いで物語りを致す時間を持ち合わさぬ故に――それではこう致そう、貴殿の、その発心を、拙者はここで冷ますことを致したくない、よって、明晩と言わず、今晩、いささか二三子の会合もあるによって、苦しからずばその席へ、貴殿の再出馬を願いたいものだが、いかがでござるな」
「よろしい、承知仕った、すでに会うまじき昔の人に、会わんとして会うた以上は、尽すところを果さなけりゃならぬ、今晩なりと、明日なりと、貴殿のお引廻しにあずかりたい」
「いさぎよいお言葉、では、今夕七ツをお約束仕ろう、再度、これまで御足労を煩わしたい――参集の二三子とても、いずれも心置きなきものばかりでござる」
鈴木安芸守の砕けた応対、ちっとも我を侮らぬ扱いがいよいよ頼もしい。それというのは、この人も幕府の一人には相違ないが、城下にいること少なくて、山に住むことが多いものだから、世間のことにうとく、従って、昔の神尾あるを知って、その後の神尾を知らない。さしも持崩して千瘡万穴の、この神尾の醜骸を、まだ取りどころのあるものとして、手を触れてみてくれるだけでも頼もしいと、神尾が一応、不覚の涙を催したというのも無理はないでしょう。
三十五
その夜、再び鈴木安芸守をたずねると、鈴木は、客間に杯盤を設けて、打ちくつろいで神尾を迎えたが、その座上に連なる二三子というのも、意外に皆、打砕けた気風で、御家人もあるが、いささか伝法な肌合いもあるが、幸いに神尾を見知っている者は無く、鈴木もまた、神尾の何者であるかを説明せずして、同じく待遇したものですから、場所がらと役目に似合わず、打解けた会合ぶりでありました。
その座上も、かなり和やかで、主客の間に、ずいぶん忌憚《きたん》のない時代評も行われましたが、大局の帰するところは同じようなもので、どのみち、徳川家の末路の傾いて来たのは、時の勢いでぜひがない。東の衰える時は、即ち西に勢いの附く時である。それは、少なくとも関ヶ原以来のバランスだ。西の方で中心となるは、大藩のうちでも、薩摩、長州が動かなければ本当の幕府の脅威とはならない、それが現に動いている。動き過ぎるほど動いているが、ただ、薩長の勢力が動いたからとて、それだけではいかに動いても、天下の大勢をひっくり返すわけにはいかない。朝廷というものが中央においでになる、その朝廷の御稜威《みいつ》を借りて事をなさなければ、為すべき名分も、手段も立たぬ。よって薩長あたりが躍起となって策動している……
ここまでは誰も見る通りの時勢なのであるが、これからの観察と、解釈とが、この一座のものとして聞くのと、巷《ちまた》で聞くのとは大きな相違がある。鈴木安芸守はこういうように言うのです、
「策動はしているが、結局はモノになるまい、蛤門《はまぐりもん》の失敗を、再三繰返すのみに過ぎまい、過激の壮士共や、変を好む浪人共と違い、朝廷におかれても、心ある堂上公卿は、内心みな徳川贔屓《とくがわびいき》じゃ、徳川家の悪いところは悪いで改めて行き、やっぱり三百年の重しのかかった勢いでないことには、この内外の多難は救われない、たとえ、建武の中興が成ったとしても、帰するところは、やはり武家の世だ、かりに、徳川家に代って、薩摩あたりが勢力を張ろうとしても、長州が許すまい、幕府がある間は薩長相提携もしようが、徳川退くならば彼等の間に当然の同志討ち、いずれの勢力も、徳川家の多年の威望には及ばない、とすれば、彼等の為すところは、朝廷を擁して、その御稜威の下に権柄をわが手に占めて行こうとする策略があるのみだが、そうなってみると、堂上公卿が得たりとばかり手を拱《きょう》してはいないのだ、位倒れで実力の無い公卿勢力を、左様に見くびってはならない、力は無くとも、歴史を持っている彼等の情実というものは、なかなか侮り難いものでな、武家の力だけでは如何とも致し難いものがある、そこで、四方八方の因縁がからみつくから、たとえ、徳川衰えたりといえども、一朝一夕で、天下の形勢が変るということはまずあるまい」
というのが、鈴木安芸守の結論らしい。
これは関東方としては、しかるべき見方であり、また事実その通りに信じているのであるけれども、以て、天下の輿論《よろん》の帰向とは言われまい。さりとて、神尾主膳にはそれに異議を試むるほどの見識が出来ていない、黙して聞いているよりほかはない。また、今晩は黙して意見を聞くためにここへ来たので、己《おの》れの所見を述べに来たのではない。そこで神尾は神妙に沈黙していたが、鈴木のこの大体観を中心にして、集まる二三子が、かなり思いきった反駁《はんばく》を試みたり、同意を表したりすることが、また大いに学問になりました。
しかし、この座では大体に於て、鈴木の意見に一致するので、それ以上に、徳川の余力を買いかぶって、薩長共の蠢動《しゅんどう》が結局、徒労に終ることを冷笑する空気が圧倒的でありましたが、最後に、最悪の場合を覚悟するとして、
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