した。

         三十

 この時以来、二人の身心に大革命が行われたということを、誰も知ったものはありません。
 聡明にして叡智なるこの二人は、その秘密を誰にも知らせようとはせず、また知らせてはならないことだと感じました。
 二人の間が、今までと変って、二つのものでなく、完全に溶け合ってしまって、しかも、その情熱は白熱の情熱で、土をも、金をも、あらゆるものを溶かし尽す盛大なる力を、秘密の中に生かし置く二人の人間としての慎みが、また強大なりと言えるかも知れません。
 それが、二人を偽善に導かず、壮快なる活動力となり、人に疑惑を持たせずして、信頼を加えるように嶋の人からもてなされていることは、今日が昨日に優ろうとも劣ることはありません。
 それだのに、二人は、この秘密の知らるることを怖れました。相戒めて、よそよそしく振舞わなければならないことを申し合わせたのは、それは、こういう疑惑が人心を迷わすことのいかに大きいかを、二人ともに、経験の上からよく心得ているのです。
 人心を得るも、失うも、その機微に存することを、飽くまで味わって来た駒井甚三郎、世間の苦労をしつくして、人心の反覆を知り過ぎるほど知っているお松は、二人の評判が、この僅かな同志の間にでも異様に立ちのぼった時は、それは二人同士の身心の革命が、血を流さずして行われたことのように容易なものでないことを、熟知しているからであります。
 人心が離れる、離れないということは、男女の間の疑惑から起って、予想だもしない危険があるということに、相戒め、節制をつとめる二人の間は、偽善ではなくして、誠意でありました。
 二人の間を、異様な眼を以て見るものは一人もありません。船にある時、優良なる船長であった主人と、その最も忠良なる侍女、或いは秘書としてのお松を、虚心平気で見る以外の眼を以て見るものは一人もありませんでした。
 二人の革命は、無事に二人だけの破壊と組立てを完了している。その勝利というような甘い感じが、ややもすれば、この聡明にして警戒深い二人の世界を、動かそうとすることもないとも言えないが、二人の世界は、二人だけの世界で、何者といえども、これに触るるを許さないところのものでありました。
 その甘きに酔うべき秘密を、二人は、厳粛に、犯されざる垣の内に保ち得たりとする、そこに、誠意もあり、警戒もあるが、また、免るべからざる弱さもありました。その弱味が、蓋《ふた》を取って物を見るように見られていることを感づかない二人の心に、充分の隙間《すきま》があり、愚さがあるということを気づかないでいるところに、また二人の善良さもあるというものです。
 事実、秘密は保たれている――と信じきったところに過《あやま》ちはなかったもので、今も現に、一人として異様な眼で見るものはないのは、まさに相違ないのですが、たった一人の者に、その秘密を見破られてしまっている――ということに、二人が気がつかなかったというのは運の尽き――いや、それが結局、喜ぶべきことかも知れません。この同志の中のたった一人が、早くも二人の秘密をうかがい知ってしまいました。
 その一人とは誰。神秘に属する官能を与えられた無邪気な清澄の茂太郎か。いいや、そうではない。茂太郎は鋭敏な天才に似ているけれども、まだその世界を知るまでには、年齢の力が許していない。つまり、それを最初に見破ったのは別人ならず、七兵衛入道なのであります。
 七兵衛は、もう翌日の朝、二人の間を見破ってしまいました。
 朝の御機嫌伺いを兼ねて、事業の進境の相談をするために、真先におとずれ[#「おとずれ」に傍点]た時に、平静を極めた二人の、常と少しも変らない態度とあいさつのうちに、どこをどう見つけたか、心のうちに肯《うなず》くものがあって、そこはやっぱり狸ですから、二人がなにくわぬ表情をしている以上に、この男は尋常な面つきで、いんぎんに聞くべきを聞き、述ぶべきを述べて、天幕の中へ引下って来たが、まだ働き手は誰も出動していないテントの炉の前で、煙管《きせる》を一つポンとはたきながら、七兵衛入道は変な面をして、思わずこう言いました、
「お松も、いよいよ女になったなあ」
 駒井甚三郎も、お松も、この人に会っては、皮をかぶることはできないのです。
 だが、そういった七兵衛入道の面には、いささかも意地の悪い表情はなく、それが結局、二人の喜びに勝《まさ》るとも劣ることなき、躍動を抑えて、ほほえむかの如き含蓄の深い色を漂わせて、
「縁は異なものとはよく言ったものだ、あの子が駒井の殿様のものになろうとは思わなかった、駒井能登守を、こっそりと独占《ひとりじめ》にする凄腕《すごうで》を持っていようとは思わなかった、さて、おれが仕込んで、おれ以上の腕になったというものか、全く以て小娘は油断ができない」
と、こう独《ひと》り言《ごと》を言いながら、ほくそ笑みをつづけましたが、その笑顔は、我が子の手柄を親としての自慢と誇りに堪えないような笑顔でないと誰が言います。事実上、七兵衛は、わがこと成れりというほどに、そのことを喜んでいるのは確かです。
 お松についても、駒井についても、知るだけを知りつくしている七兵衛入道は、今さら、「縁は異なものとはよく言ったものだなあ」と、ひたすら、その縁という異常なることに感じて、それの正しいか、正しからざるかは考えていないらしい。考える暇もないらしい。もし、少々でもその余裕があったとしたならば、彼は第一に、このことが宇津木兵馬というものにとって、いいことか、悪いことか、そのことだけでも一応は考えなければならないはずなのです。
 七兵衛としては、一日も早く兵馬に本望を遂げさせて、そのあと二人を一緒にしてやる、これが一生の願いで、これまで陰に陽にそのことに力を入れて来たのですが、ここで、そういう結構が、すっかり打ちこわされてしまっていることを知った以上は、お松に対して苦言を言わなければならず、駒井に対して直諫《ちょっかん》もしなければならないところなのですが、これがすっかり消滅して、
「お松もいよいよ女になった、これで、おれも安心だ」
という安心と満足でいっぱいなのは、どうしたものでしょう。こうして七兵衛が、大安心と満足で満ちきっているところへ、天幕の外から、
「おじさん、来ているの?」
 これも、うら若い女の声でありました。紛《まご》う方《かた》なき奥州の南部で、七兵衛入道がむりやりに押しつけられて来た、お喜代という村主の娘の声に相違ありません。

         三十一

「お喜代坊か」
と七兵衛が言ったので、
「おじさん、一人?」
と答えて天幕の中へ現われたのは、湯の谷の温泉で、きわどい時に拾い当てた山方の娘のお喜代であります。
 お喜代は、紺飛白《こんがすり》のさっぱりした着物をつけて、赤い帯をしめ、手拭を髪の上に垂らして、手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》のかいがいしいいでたちで入って来ました。その張りきった体格と、娘でありながら、まだ子供のような無邪気な初々《ういうい》しさが、思わず七兵衛を見惚《みと》れさすものがあります。
「ああ、わしは今、駒井様へ行ってお指図を受けて来たところなんだが、もう、みんな働きに来るだろう、喜代ちゃん、そこへ火を焚《た》きつけておくれよ、お湯をわかしといてもらいてえ」
「はい、承知しました」
 極めて柔順に、この子は、七兵衛の言いつけを聞いて、急ごしらえの築立竈《つきたてかまど》の下へ、薪《たきぎ》を折りくべて火をたきつけ、やや遠いところの水汲場へ行って、バケツへ水を満たして来て、釜に入れたりなど、まめまめしく働く。その働くさまを、七兵衛は、こちらから煙草をのみながら、じっとながめておりましたが、
「ああ、ここにも娘盛りがいる」
と言って、何か深く考えさせられたものがあるようです。
 お喜代は、あんなにして七兵衛が貰い受けて来たというよりも、変った意味の前世の約束で、無理に背負わせられて来たのだが、こうなってみると、有力な拾いものであります。有力どころではない、求めても得られない、珍重な拾い物をしたと思わずにはいられません。
 その当座こそ、この娘は、さんざんに泣きもしたし、故郷を恋しがったりして手がつけられなかったけれども、今は慣れきってしまいました。これが与えられた生活であるという希望が、ようやく芽を出して来たのは、上陸して後にはじまったのではありません、船の中が好きになりました。海上生活が好きになったというよりは、この中の同志が物珍しくて、そうして、いずれも内容があって、親切であることが、単純な山の中の人と共に生きているよりは、なんとなしに豊かなものであることを知って、この人たちと共に暮すならば、海の涯《はて》、山の奥、どこまでもと言いたい気分になっているのでした。それから、この植民地が出来るにつけても、女としては唯一無二の働き手です。お松も働き手ではあるが、それは上局の部分に属して、主として船長附きになっているから、開墾そのものと、その生活の世話に、手を下して助力するということはできません。その不足を、お喜代ひとりが補って余りあるのです。この娘は山方でも、家柄のいいところへ生れたのですが、労働を厭《いと》わないのみならず、労働に慣れておりましたから、ほんとうにここでは三面六臂《さんめんろっぴ》の働きをします。口数が少なくて、働くことは三人前もしますから、この点に於ても申し分はありません。そうして、張りきって何不足なく働くものですから、体力もみるみる実が入って、はちきれそうな肉体の豊かさを、紺飛白の着物の下から、唐ちりめんの赤い襷帯締《たすきおびしめ》の色から、甲掛脚絆の外れから、惜しげもなくはみ出して見せるところに、七兵衛が思わず見とれて、そうしてまた思いました、
「ここにも娘盛りがいる、今はまだいいけれども、そのうちに、と言っているのでは遅くなる、何とかしなければならない、何とかしてやらなければならない、何とかするといっても、もう世界は限られているようなものだから、いずれは、この組の中の誰かに合わせてやらなければならない、そのうちに当人が誰を好くとか、誰ぞがぜひにとか望んで来るものがあるに相違ない、打ち出してそう言えないうちに、それを見てやらなければならないのは年寄の役だ、だが、危ないものだなあ」
と七兵衛が、年寄心で、それからそれと取越し苦労に耽《ふけ》って行く。
「危ないというのはほかではねえ、この国には男が多くて女が少ない、少ないというよりは、まだ男の数は、そうと、十三人を数えるけれども、約束済以外の女といっては、まあこの娘と乳母《ばあや》――は、これはもう一度卒業したんだから、明いているといえば明いているが、初物《はつもの》とは言えねえのだ、してみると、取引のできる女というのは、お喜代坊ひとりだけなんだ、十三人の男に一人の女、しかもそれが、はち切れそうな娘盛りと来ていちゃあ、これは只事じゃあ済まねえなあ、こいつ、この国での一番の考えごとだぜ」
 七兵衛の苦労は、そこまで及びましたけれども、それはただに取越し苦労ではない、火がそこまで燃えさかって来ているようで、おっつけ、この女の持主というものを確定してやらないことには、その暗黙の競争者で火花が散る。苦労人の七兵衛は、この問題を、島に於ける最初の、しかも最大の難問題のように思われ出してきました。
 競争者が出来た時に、一方に与えて一方に与えなければ、すぐに生命《いのち》がけの問題になる、ということを、苦労人の七兵衛が考えないわけにはゆきません。そうしてみると、今のうちに、すっかりこの娘の持主をきめてやって、他の者は手が出せないものだという観念を、みんなに持たせてしまわなければ事が遅い。これは考えている時じゃない、眉《まゆ》に火のついた問題だと、七兵衛はせき[#「せき」に傍点]立ちました。
 お松の方は、あれで大安心。いいか、悪いか、それは知らないが、もうあの女の運命はきまったから、あれは、これ以上に心配してやるがものはない。これからはこの娘だ、
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