て不快なりとはしていないようです。
かくて、二人は椰子の木蔭を、かの新館なりと覚ゆる方面に向って、無言で歩きました。それは主従相伴うて歩むのでなく、二個の人間が相携えて行くもののようです。
椰子の林をわけて行くといっても、それは熟地に見るような簡単なものではないのです。蛮地ではないけれども、多年の無人島ですから、たとえ隣から隣へ行くにしても、道というものはないところなのです。そこへ、心あたりだけの道をつけて進むというよりほかに、進む道はないのです。自分たちの住む新館は、たしかあちらの方と、漫然とした道方角を選んで歩いても、それがそのままに通り抜けられるかどうかはわかりません。
で、二人は、方向の目的はきまっているが、その径路のことは忘れているようでありました。
無言で、ずんずん歩み行くこと、そのことだけに気が張りきって、到着の時と、ところと、そんなことは忘れてしまったのではないか。
二十八
「お松さん、わたしはここで、一つ、あなたを驚かすことを言ってみたい」
と、ある地点へ来て、駒井は足をとどめて、椰子の大木の一つに身を釘附けにしたようによりかかって、こう言いかけられたお松は、全身の鼓動を覚えたけれども、それでも度を失うようなことはなく、むしろ、待っていましたというような大胆な心をもって、駒井の前に立ちはだかりました。立ちはだかったというのは、不作法千万な振舞でありますけれど、お松としては、それほど大胆になり得た気分を、自分ながら誇りたい心持で、
「何を仰せられましても、驚きは致しませぬ」
「本来は、驚かすつもりもなく、驚くべき何事もないのですが、少しもわたしを知らない人は、狂気の沙汰《さた》と思うかも知れません」
「殿様、あなたはわたしの唯一の御主人様でござります、御主人から仰せを蒙《こうむ》って、それで驚く家来はございません、この場で命を取るぞと仰せられましても、それに驚くような家来は、家来でございません」
「いいえ、そなたは、わたしの家来ではない、わたしはもう疾《と》うの昔に、人の主人たる地位をのがれた、同時にただ一人の人をも家来とし、奴隷とするような僭上《せんじょう》を捨てた、わたしを殿様呼ばわりするは、それは昔からの口癖が、習慣上から廃《すた》らないのだから、急に咎《とが》めようとも思わないが、本来、わたしはもう疾うに昔の殿様を廃業している、こうして涯《かぎ》り知られぬ海上をうろつく、これが本当の浪人じゃ、浪人という字は浪という字を書く、陸上にさまようているのは、あれは浪人ではなく、牢人と、人を囚《とら》える牢という字を書いたものもあるが、海上から見ると、陸にいる人は牢にいる人と同じかも知れない、陸にいてはいくら自儘《わがまま》だといっても窮屈じゃ、限度という格子に必ず突き当るが、そこへ行くと、海上は無制限だ、海上には、海上の自由があるな、たしかに。だから海上に漂う身になってみないと、真の浪人の味はわからぬものだ、つらいことも無制限だが、楽しいことも無制限だ。人間として、人間の制限を受けるのはいやなものだな、お松さん、そうは思いませんか」
「それはおっしゃる通りでございます、陸にいると、海にいるとでは、人間の気象が自然に違って参ります」
「制限のなき世界、制限なくしておのずから節度のある世界、節度を人から強《し》いられず、自ら楽しんで傲《おご》ることなき、そういう世界が望みで、わたしはこの船の旅に出ました、わたしはもう人の上に立つことはしない、人の下に忍ぶこともしない、お松さん、君が、もしまた、このわたしを主人と思い、己《おの》れの立場を家来と思っているとしたら、それはおたがいの誤解であるばかりでなく、おたがいの不幸です、この道理が、あなたにはよくおわかりのはずです」
「毎々《つねづね》、そのように承っておりますが、それは道理だけのものでございます、誰ひとり、あなた様を、自分の同輩だと思うものがございましょう、思おうとしても思われません、それだけに備わるものがございますから。それだけ企て及ばないものがあるのでございますから」
「おたがいに身を以て解釈しなければならない、昔のままの頭を以て、今の生活をしようというは無理ですよ、わたしたちが千辛万苦をしてなりとも、異境の土になりたいというのは、今までの生活がいやだからです、その生活を土台から築き直すためには、歴史と、習慣と、恩義というようなものを負うている国では、それができないから、わざわざこうして、天涯に土を求めているのに、昔のような頭で、昔のような生活に帰るつもりなら、おおよそそれは無意義なのです、その様式をすっかり打ち直すと共に、その心持を全く入れ替えなければならない。船のうちでは、そうしようとしても許されないものがありました、こうして自由なる国土の形式が、とにもかくにも出来上った上は、その実行にうつらなければならないのです――それを、わたしは、ここへ来ると同時に、ひそかに決心しました、考えるだけは考え尽して、もはや決心の時代も過ぎて、実行の時代に入りました、その実行の第一として、誰よりも先に、お松さん、お前を驚かさなければならない。実を言うと今日まで、その機会を冷静に見つめていましたが、今晩という今晩が、その与えられた機会だと思わないわけにはいかない、もう、これ以上に論議を費す必要はないのです、物を言って説明《ときあか》す必要はないのです、わたしは極めて平静の心を以て、これを言いますが、お松さん、あなたはわたしと結婚しなければなりません、駒井甚三郎は改めて、お松どのに結婚を申し込むのです、秘書として、助手としてではない、妻として、あらゆるものを駒井に許すのです、それをわたしは今ここで、あなたに要求したい」
駒井甚三郎は、つとめて平静をよそおい、また平静の心を以てこれを言わなければ、言う意味をなさないことを感ずるかの如く、こう言いきって、そうして、お松の表情を、月に照らして、爪の先までも見落すまじと見入ったのです。
二十九
しばらくの間、たぎり流るるような烈しい沈黙が、無人島の、今は無人でない処女嶋の、椰子の林の木の間につづきました。
駒井のかくまで、技巧ならぬ技巧をこらして打ち出でた応対に、お松としては返事がありません。返事ができないのです。できないのは、あり余って、そうして、その言葉を見出すに苦しむのでありましょう。
全くこれは、この純良忠実なる処女を驚かすに充分なる申し出でありました。尋常の場合、当然の立場でいてさえ、女性として、この申し出に触れた時は人生の最高潮であって、これに動揺しない婦人は一人もあるべきはずでない。驚くなと言っても、驚かずにはいられないはずのものです。お松の心の激動と、その激動を持ちこたえるものごしは、駒井に正面から見下ろされてのがるる由がありません。生憎《あいにく》にも、木蔭を洩《も》るる月の光が、また直下にこの処女に射向いて、絶体絶命の手づめを見せているのです。
こうなった時に、お松は、これこそ驚くべき勇気を以て、少しもたじろがずに駒井の面《かお》を見上げて、それに劣らぬ平静を以て答え得られたことが意外です。何か力あって、この女性を後ろから嗾《けしか》けるもののように、
「承知いたしました、わたくしは、あなた様のお申出でを、このまま素直にお受入れ致します」
「うむ――」
と言って、駒井甚三郎が、その足を大地に踏みこたえるように立て直して、
「有難い――よく承知をしてくれました、今晩から、あなたは、わたしの妻です」
「かような、これより以上の大事はないお申出でを、そのまま、この場でお受けする気持になった、わたくしというものの我儘《わがまま》をおゆるし下さい、わたくしは自分で、もう自分のことがわかりませぬ、無条件で、なんでもかでもあなた様のお申出でに従うよりほかに道がないことを犇《ひし》と身にこたえました、本来ならば、充分に考えさせていただいて、せめて今夜一晩なりとも、静かに考えさせていただいてから、最後の御返事をしなければならないのに、それをしないで、この場で、こんなに手軽く仰せに従う、わたくしというものの軽佻《かるはずみ》を定めてお心の中ではおさげすみになっていらっしゃるかと存じますが、わたくしは、もうさげすまれようが、賤《いや》しまれようが、左様なことを考えている余裕はないのでございます、今晩一晩考えさせていただいたに致しましても、明晩、明後日、一生涯考えてみましたとても、このお返事は考えてはできません、それ故に、この場で、あなたのお心に従います――それが、僭上であるか、男女の道に外れているか、いないか、世間態のために、あるべきことか、なかるべきことか、そんなことも、以前のわたくしならば、充分に考えている余裕がありましたでしょうが、今のわたくしにはそれがありません、あなた様が、当然のこととして、それをお申し出でになったように、わたくしも当然のこととして、それをお受入れ致します、誰が何と言っても、もはや怖れません、誰に対して済まないことになるか、済むことになるか、そんなことも一切はここで忘れ去ってしまっております、この、はしたない、慎しみのない女を、お憐《あわれ》み下さいませ」
畢生《ひっせい》の力を振《ふる》って、こう言ったお松の舌は雄弁でした。平静に、平静にとつとめながら、その間から迸《ほとばし》る熱情が、火花のように散るのを、駒井は壮《さか》んなものをながめるかの如くに見つめて、
「有難い、わたしは今まで、いかなる女性からもそういう強い愛情を受けたことがありません、女性が男性の要求を受ける場合に、抵抗がなくして、それに成功のあることは絶無です、積極にか、消極にか、抵抗を受けてその後に征服があるのです、結婚というものの原始の形式はそれでした、それが進歩して、その間に、あや[#「あや」に傍点]というものだけが残っている、一旦は拒むものです、許す気持を以て争うものです、よい意味の芝居をしないで、男の要求を受入れる女というものはありません、それをお松さんだけがしない、これは偉大なる強さです、この抵抗のない抵抗の何という強さ、今晩、駒井甚三郎は、生きているという喜びを感じました」
「わたくしも、初めて、女として生れ甲斐があったということを、今こそ欺《あざむ》かずに申し上げることができるのでございます。駒井甚三郎様、男として、あなた以上に依頼のできる人が、あなたのほかにはございません、あなた様もまた、女として、友として、同志として、わたくし以上に信用のできる相手を見出し得ようということは、もはや、わたくしが許しませぬ、許したとても、それは見出すことが不能でございましょう、どんな海の果て、陸の末までも、わたくしは、あなたと運命を共にする唯一人の女でなければならないと、それは、ただ張りきった一時の感情で申し上げるのではございません、あの時から、運命がそうさせたのでございます。この大きな力をごらんください、もはや、わたしの身であって、わたしの身ではございません、この大きな力に押され、大きな力に引きずられているわたしを、お憐み下さい、わたくしは、もう自分の力で自分をささえることができませぬ、自分で今何を言っているかさえわからなくなりました」
この時に、お松は身を以て駒井の上に倒れかかりました。
全く、自分で自分を支えることができない。今まで堪《こら》えに堪えていたけれども、もう持ちきれないこの重味を、持ちかけられるのはそこよりほかにはありません。その怖るべき力を、真面《まとも》に受けた駒井甚三郎は、よろよろと、それを受留めながら、これも自分の力で自分の足もとを支えることができず、最初から楯《たて》に取っていた椰子の大木に支えられて、そこで、烈しい泣き声が、駒井の胸の中にすっかりかき埋められて、それでも井堰《いせき》を溢るる出水のように、四方にたぎるのを如何《いかん》ともすることができません。
身を以て泣く女の力、駒井はその力が、雷電の如く火花を散らす強さを知りま
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