、この男に限って、交番へ届けるという簡単な手続を、極めておっくう[#「おっくう」に傍点]がる理由があるようであります。
 届ける分には何もおっくう[#「おっくう」に傍点]はないが、届けた後には必ず住所姓名を問われるにきまっている、その住所姓名を問われるということが、今日のこの男にとっては苦手なのです。
 彼は、自分で自分を隠さなければならぬ不正直さはどこにも持っていない。また自分で自分を韜晦《とうかい》せねばならぬほどの経国の器量を備えているというわけではない。それなのに、天地の間《かん》に暗いことのない精神を持ちながら、天地を狭められたり、行動を緊縛されたりするというのは、何のわけだか、自分で自分がわからない。ただその度毎に蒙《こうむ》る不便、不快、不満というものは、いかばかりか、ややもすれば生命の危機に追い込まれることも今日まで幾度ぞ。
 そうかといって、一身の危険を回避せんがために、公道の蹂躙《じゅうりん》を敢えてしてはならない。正義の名分をあやまらしめてはならない。届け出て、住所氏名を問われるが、いかに個人的に不利、不益、不快、不満であっても、遺失物に対して相当の責任を取るべき
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