りました。
 その時分のお松は、駒井の殿様は、殿様として尊敬はしていたけれど、それは有っても無くてもよい存在のようなもので、お君さんだけがなければならない人で、その人のために、身を尽し心を尽して尽したつもりですけれども、ついにその効《かい》がありませんでした。自分の無力を歎くと共に、お君さんの不幸な一生を、歎いても歎き足りない気でいます。その時の自分の心には、宇津木兵馬というものだけがあって、そのほかの男性のことはありません。この世で、いちばん縁のありそうな人で、その実、いちばん縁のないのが兵馬様であります。紙一重《かみひとえ》の違いが、いつでも千里の外にそれる、それをお松は、運命というものは、いつもこうしたものだと、雄々しくもその時に思いあきらめて、更に新しい仕事を、新しい勇気を見つけては、ここまで進んで来ました。
 海上の生活から、今の役目が重くしていそがしいために、このごろは思い出すこともなく、お君と、兵馬のために、心の痛手を病むことが少なくなって来ていました。それを、このごろ再び、物思う身となりました。昔は人の身、今はわが身というような、言い知らぬ心の痛みが、お松を悩ますものの
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