ないから、単に、この中で最も役立つ女という実用一方のお取扱いとのみ信じていたから、そこになんらの隔意というものはありませんでしたが、この時は違いました。
 お松は何の故に、駒井の殿様が、今更あんなにわたしを御注視なすっていらしったか、その心のうちを知るに苦しみました。そうして、その瞬間に、使われ人としての自分でなく、女性としての己《おの》れを発見したものですから、我知らず狼狽して、ホッと上気してしまったこの心持が、自分ながらわからない。恥かしいとは思いましたが、ただ恥かしいでは隠しきれないバツがあって、そこは賢い女ですから、取紛《とりまぎ》らすように心を立て直し、言葉を改めて駒井に向って言いました。
「殿様、御気分でもお悪いのでございますか」
 さし止められている殿様という言葉が、この時、思わず口を突いて出てしまったことは、その心が、昔の思い出に占められていたからです。秘書としてのお松ではなく、処女としてのお松でありました。
「いや、別に気分が悪いことはないが、少し考えさせられることがあってね」
「まあ、お考えあそばすことは、あなた様の始終のお仕事ではございませんか、いまさら考えごとを
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