、悔恨に似た心で満たされて、思わずホッと息をついた時に、ペンを置いて、インキの壺を満たしかかったお松の眼とぴったり合いました。
 駒井もハッとしましたが、お松も思わず胸を轟《とどろ》かせました。
 地図を見つめて研究に耽《ふけ》っておいでになるとばっかり信じきっていた主人が、今までじっとわたしの方を見つめておいでになった。しかも、その眼の中には、解釈のできない深い思いが籠《こも》っていて、ただ研究に疲れたお眼をそらすために、あらぬ方を向いておいでになったものとは思われない。たしかに自分というものに視点を注がれて、じっと思い込んでおいでになったそのお心持は、不意にわたしの眼とかち合ったあの瞬間の狼狽《ろうばい》ぶりでよくわかる。
 お松はその時に、思わず面が真赤になりました。
 今まで、尊敬すべき主人として、二心なく働いていたし、また、こういう御主人の下に働き得ることに、精一杯の満足を捧げていたのですから、いかに接近して、いかに立入ったお仕事の相手をしようとも、自分としては、ちっとも心の動揺を感じたことはなし、また殿様も、女性として、人間として、わたしをごらんなさるほどに人情に近い方では
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