りますが、私は、大菩薩峠の著者に就いてはなお以上のことが言えると思うのです」
「それは私の知らないことだ、わたしは大菩薩峠なるものを読んでいない」
声明学《しょうみょうがく》の博士は、季麿秀才の感情に走るを制するかのように、その論鋒をおさえて、
「私にこういう経験があるのです、私が若い頃、宮中に勤める身でありまして、ここの上人《しょうにん》に就いて声明学を研究しようと思って、京都の今出川から、毎日毎夜、ここへ通いました。声明に就いて、私は絶大なる趣味と研究心を持っていたのですから、ことに若い時分の情熱も加わって、ほとんど隙《ひま》さえ見出せば老師のお邪魔をしたものです。ある時のこと、これへ参向して、上人のおいでになる扉の外で、こういうことを考えたです、こうして、うるさく上人におつきまといして研究はいいが、自分も宮中に微職を奉ずる身を以て、かく大原の僧院まで毎日参学することは、職務に対しての聞えもいかがであり、且つまた上人に対して、かくばかりうるさくおつきまとうことのお煩わしさを考えると、一本調子ではいけない、少しは遠慮というものがないことには、自他のために重大な迷惑となる、では明日から断念して参学を控えよう、今後は、上人をお訪ね申すことをやめよう、こう思って、上人の前へ出ますと、私が何も言わない先に、上人が、これ秀才、お前の考えていることは人情だが、わしの方はかまわない、その道のために、いくらお前がわしに附きまとっても苦しくない、かように亡き上人が仰せられましたので、はっとしました。扉一つを隔てて、私の思うところ、これから述べようとする意志が、すっかり上人に予知されてしまったのです。私がいよいよ真剣に声明の学に精進することになったのは、それからのことで、同時に声明は即ち無声なり、無声の声を聞かざれば、声明の神《しん》に通ずること能《あた》わずと悟ったのもそれからのことです。それまでは、趣味としての声明、科学としての音律の研究にうき身をやつしたのでありますが、それではいけないことをさとりました」
「無声の声は、禅家《ぜんけ》のいわゆる隻手《せきしゅ》の音声《おんじょう》といったようなものでございますか」
「いや、それとは少しく違います、声明家は禅家のような独断論法を嫌います、信仰者でなければならないが、同時に、科学者でなければならないのは一つの資格といえるでしょう。人間の声にも、有位有声と、有位無声とがありますが、前者を十一位に分つと後者が四位、これを宮商角徴羽《きゅうしょうかくちう》に分けてすべての音声を十五位に分類する、これを律呂《りつりょ》という、十五位は十五声にして一声、一声にして全声なるものです。御承知でしょう、この外を流れる川に、呂の川と、律の川とがあります、この律と呂の川を溯《さかのぼ》って行きますと、そこに音なしの滝というのがあるのです、百声万音は律呂に帰し、律呂は即ち音なしに帰するというのが声明の極意なのです、そうして日本に於ける声明の総本山は即ちこの寺なのです、大日本の魚山《ぎょさん》はこの大原のほかにありません」
「ギョサンですか、ギョサンとは、どういう字を書きますか」
「魚という字です、サカナという字です、魚の山と書きまして、天竺《てんじく》、即ち印度《インド》では霊鷲山《りょうじゅせん》の乾《いぬい》の方《かた》にあり、支那では天台山の乾の方、日本ではこの比叡山の乾、即ち当山、大原来迎院を即ち魚山というのです、慈覚大師|直伝《じきでん》、智証大師|相承《そうじょう》の日本の声明の総本山なのです」
声明の博士が、季麿青年を相手に諄々《じゅんじゅん》として、こういうことを語り聞かせ、おたがいに夜の更くるを知らない時分に、不意に戸を叩く音がありました。
「御免下さりませ」
「どなたですか」
「はい、わたくしは、東国|安房《あわ》の清澄山から出て参りました、弁信と申す小坊主でございます」
博士と、秀才と、二人の談論|酣《たけな》わにして倦《う》むことを知らないこの場へ、さしもの広長舌のお喋《しゃべ》り坊主が一枚加わったのでは、その舌端を迸《ほとばし》る滝津瀬《たきつせ》の奔流が、律呂の相場を狂わすに相違あるまいと、知る人は色を変えるだろうが、幸いに内なる二人は、弁信の何者であるかをまだ知りませんでした。
七十二
魚山の来迎院に、声明の博士と、季麿秀才とを驚かした弁信法師は、座に招ぜられると、案外に慎しみ深く、簡単に来意を述べました。
ごらんの通りの盲目の身、東夷東条の安房の国、清澄の山を出でてより幾年月、世を渡るたつきとしては一面の琵琶、覚束ない音締《ねじめ》に今日まで通して来たが、琵琶は最後の思い出に竹生島の明神へ奉納し、わが身は山科の光仙林にしばらく杖をとどめていたが、山科よ
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