りは程遠からぬところ、ここは大日本の魚山として聞えたる大原の来迎院こそは声明の根本道場と聞くからに、ここで修行をさせていただきたい、奥義《おうぎ》というもおこがましいが、見えぬ世界を見んとする不具者の欣求心《ごんぐしん》に御憐憫《ごれんびん》を下されたい、入門の儀、ひたすらに御紹介を頼み入ると、これは例のほしいままなる広長舌を弄《ろう》することなく、極めて簡単明瞭に来意の要領を、まず声明《しょうみょう》の博士に向って披瀝《ひれき》しますと、博士はその志を諒なりとして、院主上人に向ってその希望を通じましたところ、院主上人は、また弁信の志を憐んで、これに対面して次のように申しました。
「金剛語菩薩《こんごうごぼさつ》即ち無言語菩薩《むごんごぼさつ》、声明の奥義を極めんとならば、まず声なきの声を聞くべし、幸いにこの律呂《りつりょ》の川の上に音なしの滝がある、音なしの滝に籠《こも》って、無音底の音を聞く気はないか」
 かように申されました時、弁信は、一議に及ばず、これこそ望むところとあって、直ちに翌日の明星をいただいて坊を出で、音なしの滝に詣《まい》りました。
 その日より、滝のほとりに、ささやかな安居《あんご》の地を求めて、そこへ飛花落葉を積み重ね、正身《しょうじん》の座を構えると共に、心神をすまして音なしの音を聞かんとすることが、この法師の早天暁の欠かさぬつとめ、世間は暫く彼の広長舌から免れるの自由を得ました。

         七十三

 有野村の与八が、この春から勧化《かんげ》をして歩いたことの一つに、荒地の開拓と、ハト麦の栽培、ジャガタラ薯《いも》の増産等があります。
 与八は、その時、こう言って村々に勧誘をして廻りました――
 皆さん、何が怖ろしいといって、戦争と饑饉ほど怖ろしいものはこの世にございません。地震だの、雷だの、火事だのというものも怖ろしいには違いありませんけれど、その災難の程度を比べると、戦争や饑饉と比べものにはなりませんよ。戦争はどうかすると一国の人を殺してしまい、一つの国を亡ぼしてしまうことがございます。饑饉もまた国中の人が、のたれ死をしてしまうこともございます。戦争のことは人間のすることですから、わしらにはわからねえですが、饑饉は天道様《てんとさま》のお仕置だから、わしも少しは知っています。なんしろ、人間が食えないで死ぬんでございますから、こんな悲惨なことはあるもんじゃあございません。でも、人間の力で、日頃の心がけがよければ、逃れられないはずはねえとこう思うんですが、それに就いて皆さん、なるべく荒地を開いて、それに、ハト麦と、ジャガタラ薯とをお植えなさいまし。ハト麦は、世間並みの大麦や小麦と違って、肥料《こやし》がいりません。そうして、蒔《ま》いて僅かの間に取入れができます。その上に取穀《とりこく》が多いし、味がよろしいし、食べて薬用にもなるものでございます。種子はわしのところにたくさんございますから、分けてお上げ致しますよ。
 与八は、電剣先生から聞き覚えたハト麦の栽培法を、村人に伝授を致しました。それから、ジャガタラ薯も、まだ作り方を知らない人に教えてやりました。村人のうちには、ハイハイと聞いてはいるが、実行しない人も多くありましたが、与八は、それに頓着なしに、ハト麦の効能を説きながら、その種子を配り歩いています。
 饑饉というものは怖ろしいものですよ。わしらも子供の時に見ました。野原にちっとも青いものがありませんでな。みんな人間が摘《つ》んで食べてしまうからです。それでも足りないで飢《かつ》え死ぬ人が多くありまして、わしらが見ても、街道筋にゴロゴロ行倒れが毎日のように倒れました。わしの大先生《おおせんせい》は心がけのいい人ですから、そういう時の用心がちゃあんと出来てましたから、わしらはいくら饑饉でも、ちっともひもじい思いをしたことはございませんでしたが、世間には、明日食うものがない、今日食うものがない、二三日食わない、なんていう人がザラにありました。
 天保の年は、四年と七年と二度も続いて饑饉がございましたが、七年の方が殊《こと》にひどうござんした。その年は春の初めから引続いて、季候が不順でございまして、梅雨《つゆ》から土用まで降りつづいた上に、時候がたいそう寒うございまして、日々毎日、陰気に曇ってばっかり、晴れたかと思えば曇り、曇ったかと思えば雨が降る、といったような陰気な年でございました。その時のことです、相模の国の二宮金次郎という先生が、その年の季候をたいそう心配しておいでなさいましたが、土用にさしかかると、もう空の気色がなんとなく秋めいて来て、草木に当る風あたりが、気味の悪いほどヒヤヒヤしていましたが、ある時|新茄子《しんなす》をよそから持って来てくれたものですから、その茄子を糠味噌《ぬ
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