腰巻、黒の手甲に前合せ脛巾《はばき》も賤《いや》しからず、
「薪《たきぎ》、買わしゃんせんかいな」
の姿は、以前の時によく見かけた。姿よりはその健康な肉体に魅せられたものだが、その踊りというのはまだ見参しない。早くそれを見たいものだ。
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年はよれども
まだ気がわこて
若いあねごのそばがよい
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 水々しい老尼は、自分を唄っているのかひとごとか、手ぶり、足ぶり、歌の声までも浮き立って、さして行方は花の大原、花尻の森の忍びの踊り。
 森の中には、踊り疲れる人ばかりではない。竜王明神のほこらには、烈しい嫉妬の神が待っていることを知るや、知らずや。この年老いて、そうして省《かえり》みることを知らぬ水々しい雌蝶と、老いたりというにはあらねど、生きたりというにはあまりに痩《や》せた雄蝶とは、年甲斐もなく、浮かれ浮かれて、花尻の森、源太夫の屋敷あと、且つは嫉妬の神の隠れた竜王明神の祭りの庭の赤い火に向って行くのが危ない。

         七十一

 その夜、大原三千院の来迎院《らいごういん》の一室で、声明学《しょうみょうがく》の博士が、季麿秀才《すえまろしゅうさい》を前に置いて物語りをしておりましたが、
「こんな話をすると、君たちは、なにを子供だましのと思うか知らんが、だまされる子供が幸いで、だまされない現代人が不幸であることを思わなければなりませんよ」
 この秀才は、子供のように素直なところのある青年でありましたから、博士の言う意味がよく呑込めました。且つまた、この季麿秀才は、年に似合わぬ博学多才で、能文達識で、品行が方正で、ことに人の悪口などを言うことが最も嫌いな好学の青年でありましたから、それに張合いのある博士は言葉をつづけて言う様は、
「この世界は一つの寓話《ぐうわ》に過ぎないのですよ、釈尊は最も譬喩《ひゆ》をよく用いました、おそらく釈尊ほど卓越した修辞家はありますまい、また、古来のあらゆる作家よりも優れた作家は即ち釈迦です、ドコの国に、あれほど優秀な譬喩の創作者と、使用者とがありましたか。譬喩は即ち寓話です、寓話は即ち子供だましです、およそ四諦十二因縁《したいじゅうにいんねん》のわからぬものにも譬喩はわかります、阿含《あごん》華厳《けごん》の哲学に盲目なものも、寓話の手裏剣には胸を貫かれるのです。今まで私が話した話、これから私が語り出でようとする長物語を、君たちが空《くう》に聞き流さないことを望みます」
と言いますと、季麿秀才は、それに敬意ある諒解を以てつけ加えました、
「左様でございます、哲学者が訴え得られる範囲は、少数の特志家の頭脳だけにしか過ぎませんが、詩人というものは、大多数の人にも、後代の人にも、了解される特権がございます、それをことさらに縄張りをして、大衆の文学だの、少数の芸術だのと、差別なきところに差別を設ける彼等の術策を憫《あわれ》まなければなりません、また、左様な術策にひっかかるおめでたき民衆を憫まなければなりません。世に優れたる詩人の空想ほど確実性を持つものはございません、科学などはそれに比べると全くお伽噺《とぎばなし》のようなものです。アミエルは、ミゼラブルの雄大なる構想を支配する中心思想を知ろうと思って、三千五百頁のあの大冊を幾度も繰返して読んだ後に、こういうことを言いました、ヴィクトル・ユーゴーは、効果を以てその美学論の中心としているから、作がこれによって煩わされている、然《しか》しヴィクトル・ユーゴーは何という驚くべき言語学的・文学的能力の所有者か――地上及び地下に於ける驚異すべきものを彼は悉《ことごと》く知っている、知っているだけではない、それと親密になっている、たとえば巴里《パリ》の都のことに就いても、あの町々を幾度も幾度も、裏返し、表返して、ちょうど人が自分のポケットの中身をよく知っているように巴里を知っている、彼は夢みる人であると同時に、その夢を支配することを知っている、彼は巧《たく》みに阿片や硫酸から生ずる魔力をよび出しはするが、それの術中に陥ったためしがない彼は発狂をも自分のならした獣の一匹として取扱うことを知っている、ペガサスでも、夢魔でも、ヒポクリッフでも、キミイラでも、同じような冷静な手綱《たづな》を以て乗り廻している、一種の心理的現象としても彼ほど興味ある存在はあまりない、ヴィクトル・ユーゴーは硫酸を以て絵画を描き、電光を以てこれを照らしている、彼は読者を魅惑し、説得するというよりは、これを聾《ろう》せしめ、これを盲せしめ、そうして幻惑せしめている、力もここまで進んで来れば、これは一種の魔力である、要するに彼の嗜好《しこう》は壮大ということにあり、彼の瑕瑾《かきん》は過度ということにある――アミエルはこういうようなことを言っているのであ
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