伊勢守は頭を下げない、ただ会釈ばかりで玄関へ通った。何といっても、まだ天下の徳川の老中だ。世間では、薩摩の太守、薩摩の太守とあがめ奉るが、見受けるところ、老中に対してはあの通りだ。老中もまたあれだけの権式を保ち得られたものだが、僅かの間にそれもガタ落ち、薩摩の藩邸が江戸荒しの山賊の策源地と公認されながら、それに一指を加うることができないとは……
 神尾は憤《いきどお》りを含みつつ、小酌を傾けました。

         七十

 さてその次の夜は、またおぼろ月の大原の里。
 おぼろ月というのは、春に限ったものだが、ここ大原の里には、秋も月がおぼろに出ると、それに浮かれて二つの蝶が寂光院の塔頭《たっちゅう》から舞い出でました。
 蝶というには少しとう[#「とう」に傍点]が立ち過ぎている嫌いはあるが、雌蝶であり、雄蝶であり、それが月に浮かれて庵《いおり》を立ち出でたことは間違いがありません。
「大原へ来たら、美しい尼さんでも出て来るか、そうでなければ、阿波《あわ》の局《つぼね》の後身にでも見参ができるかと、それを楽しみにして来たら、餓鬼草紙から抜け出したような婆さんが出て、因果経のおさらいをして見せたには、一時《いっとき》うんざりしましたが、こうして、苦労人の昔の美しい人と一緒に歩いてみると、悪い心持は致しません」
と言ったのは、とうの立った雄蝶でありまして、昨夜以来、無条件の逗留を許された盲目のさすらい人の声であります。
 見れば、今までのように、コケ嚇《おど》しの覆面や、白衣《びゃくえ》はかなぐり捨てて、さっぱりした竪縞《たてじま》の袷《あわせ》の筋目も正しいのを一着に及んで、帯も博多の角なのをキュッと締め込み、刀もなく、脇差もない代りに、手には時ならぬ団扇《うちわ》を携えて、はたはたと路傍の草花を薙伏《なぎふ》せながら先に立って、そぞろ歩きをしています。
 若々しい老尼もまた、いい気なもので、すらりとした尼さんの姿ではあるが、この尼さんは、袈裟《けさ》もなく、法衣《ころも》もなく、数珠《ずず》さえも手にしていない代り、前の人と対《つい》な団扇を持って、はたはたと路傍の花を撫でながら、
「花尻の森へ行きましょうよ、忍踊《しのびおど》りを見に行きましょうよ」
「何ですか、そこは……花尻の森というのは」
「源太夫の屋敷あとなのです」
「その源太夫と申しますのは?」
「松田源太夫のことでございますよ」
「松田源太夫――あんまり聞いたことのない名じゃ」
「源頼朝公から、建礼門院様お目附のために差しつかわされた鎌倉の御家人《ごけにん》の名でございます、それがあの森に屋敷を構えていて、建礼門院様のお目附をしていました」
「それは古い昔のことだなあ、そこに今晩お祭りがあるのですか」
「森の中に竜王明神の祠《ほこら》がございましてね、今晩はそこで忍踊りがございます」
「なるほど、唄が聞えますな」
「さあ、しばらく、そのままで、あの唄を聞いていらっしゃい」
「節《ふし》は聞えるが、詞《ことば》はわかりません」
「森へ着くまでの間に、唄のおさらいをして上げますから、お聞き下さい、あちらの調子に合わせて、わたくしが唄って上げますから」
 森の中で起る節を伴奏にして、水々しい尼さんは、こちらの耳にもはっきりわかるように、忍踊りの歌詞《うた》を唄い出しました。
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わが恋は、小倉《おぐら》の里のひる霞
つもりつもりて、はれやらぬ
忍踊りを一踊り
われが身は、君を思うて浮かるるも
行くもかえるもうつつなや
忍踊りを一踊り
忍び行く、のべの川瀬は浅かれよ
君の契《ちぎ》りは深かれよ
忍踊りを一踊り
君様に、ここに一つのたとえあり
清滝川も濁りそろ
なにとて君様つれなさよ
忍踊りを一踊り
君様を、思いかけたる庭の花
うらの妻戸を忍び入る
忍踊りを一踊り
忍び入り、君の枕に手をかけて
ここでこの夜を明かせかや
忍踊りを一踊り
今ははや、思いし恋いしがかの[#「かの」に傍点]てそろ
枕屏風《まくらびょうぶ》にかたよけて
物語りは限りなや
忍踊りを一踊り
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 若々しい老尼は、忍踊りの声を逐一《ちくいち》、遠音の伴奏に合わせてうたい出したが、やがて手をさし、足をのべて、おのれも踊りながら歩いて行く。
「手ぶりなら、こちらへきてござんせえな、トトさんも、カカさんも、ニイも、ネエも、ボーも、マーも、みんな踊ってござんすわいなあ」
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やれやれよういな
声が欲しいわいな
「ちょいとこなあ」
よう立つ声が
声で人をや、迷わすは
しょんがいな
[#ここで字下げ終わり]
 これや名代《なだい》の大原女《おはらめ》、木綿小紋に黒掛襟の着物、昔ゆかしい御所染の細帯、物を載せた頭に房手拭、かいがいしくからげた裾の下から白
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