の女性のよくするところではありません。また、こんな人おどしの仏像の存在の理由を、己《おの》れを空しうして教えを乞うてみたところで、無用無益なりとの軽蔑さえも起りました。
画像そのものは、この女性を、昏惑《こんわく》から来る反感へ導いて行くのですが、その表現の色彩だけは、それと引離して、多大の躍動と、快感とを与えずには置かないのであります。のっけに見せられた素人《しろうと》に向っては、何の色が幾つだけ、どの部分に点彩され、使用されているかというような、複合の観察は遂げられませんでしたけれども、まず打たれるのは、その赤と朱との与うる燃ゆるばかり盛んなる威力と、快感でありました。
これとても、不破の関守氏から、特に力を入れて予備知識を与えられていた点でありますけれども、そういう予備知識が全然与えられていないにしてからが、この盛んなる燃ゆる色には、いかなる素人も魅せられざるを得ないものが確かに有ると信じました。絵は千年を経ているけれども、色彩、ことに赤は、昨日|硯海《けんかい》を飛び出したほどの鮮かさである。そうして、その道の丹青家をして垂涎《すいえん》せしめる。この色を出したい、いかにしてこの色を出せるか、そもそもこの清新なる色彩の原料は何物であって、いずれより将来し来《きた》れる――ということが、古来、専門家の間の疑問であって、今日に至って、なお解釈されていないということに、お銀様は、最初から最も大きな期待を持っていたのです。信仰の上からしても、芸術の上からしても、画像そのものを特に拝するという気分は、そんなに切迫したものではありませんでしたが、古来|未《いま》だ知られず、今人なお発見し難き色彩の秘密が、お銀様の意地を煽《あお》りました。そういうものを見てやりたい、見て見破ってやりたい、というほどの反抗心を、異常なるもの、難解なるもの、威圧なるものに対するごとに起されるこの女性の通有癖であることに過ぎません。だが、その難問に体当りをして行くには、科学が足りないことは省《かえり》みずにはいられない。問うことを好まないこの女性が、ここで僅かにくちばしをきったのは、
「この絵は、いつごろのものですか、時代は」
ただ、それだけの質問を発しました。質問を受けた当の案内役は、以前のこましゃくれた、肖《に》ている小坊主ではありません、しとやかな学僧の一人で、且つ、極めて無口の若者でありました。
「は、吉野朝時代でございます」
ただそれだけ答えたのみで、更に知識の先走りをしないのは、知らないのか、知っても言うことを好まないのか、それはわかりません。とにかくに、拝観人から、それだけの質問の口火を切れば、それをきっかけに、学僧によっては、滔々《とうとう》と知識を振蒔《ふりま》いて見せる、諄々《じゅんじゅん》と豪者を啓《みちび》くの態度を取ってみたりする学僧もあるのですが、この学僧には絶えてそういう好意がなく、衒《てら》う気もありませんから、お銀様はそれ以上に知識を要求するの機会を失いました。
だが、吉野朝時代でございます、という簡単な応答に対して、お銀様をして相当の考証に耽《ふけ》らしめた余地はありました。この点は少々、不破の関守氏の与えた予備知識に不足がある、不足でなければ放漫がある、不破の関守氏は千年以上の作と言ったが、吉野朝ではまだ千年にならない。
そこでお銀様の、年代記のうろ覚えを頭の中で繰りひろげてみると、徳川氏が二百年、織田、豊臣氏が五十年、足利氏が百有余年と見て、どのみち五六百年の星霜には過ぎまいと思いました。
もしかして、吉野朝と言ったのが、浄見原《きよみはら》の天皇の御時代とすれば、これは、たしかに千年以上になりましょうが、ここに吉野朝と言ったのは、足利氏以前の南北朝時代の吉野朝時代のことに違いないと思われるから、そうしてみると、どう考えても五六百年以前には溯《さかのぼ》らない、しかし、古い物を称して千年と言うのは、一種の口合いなのですから、それはさのみ咎《とが》めるには及ばないとして、千年を経て、その朱の色が昨日|硯《すずり》を出でたるが如しという色彩感は、さのみ誇張でも、誤算でもないということを、お銀様も認めました。
本来は、そういう質問や、そういう認識だけで、この画像[#「画像」は底本では「面像」]を卒業してしまおうというのが無理なので、そんなことよりも、まず最初に問わなければならないことは、「大元帥明王《だいげんみょうおう》とは何ぞや」ということなのであります。これが解釈なくして、この画像を、色彩と年代だけで見ようとするのは、縁日の絵看板のあくどい泥絵だけを見て、木戸銭を払うことを忘れたのと同じようなものなのです。
お銀様がそれをしらないということは、不幸にしてそれを知るだけの素養を与えられていないという意
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