人が遠慮会釈もなく、「これが有名な東大寺大仏殿の仁王、右が運慶《うんけい》、左が湛慶《たんけい》――」と言って、作ということを言わないから、仁王尊そのものの右が運慶尊、左が湛慶尊になりきって、本体と、作者が、見事に習合せしめられている。識者はそれを笑い、愚者はそれに感歎する。案内者自身はまた、右が運慶尊、左が湛慶尊と信じきって、眼中に信仰と芸術の差別なきところが、お愛嬌のようなものであります。
そこで、お銀様はじっと立って、この特異の大画を上から下へ、下から上へ、見上げ見おろしてじっと立ちました。
この怪異なる、人ともつかず魔ともつかぬ大画像は、いったい何を意味しているのか、不幸にしてお銀様にはこれがわかりません。
ただ見るところは、不動尊以上の不動尊の形相《ぎょうそう》を呈しているが、不動のような赤裸のいつわらざる形体を誇っているのではない、身辺はあらゆる紅紫絢爛たる雑物を以て装飾され、彼の如く、しかく単純に剣と縄との威力を誇示するには止まらない。なるほど、不破の関守氏から予備知識を与えられた、これが三十六|臂《ぴ》の形式というものでしょう。一つの形体から三十六の手が出て、それがおのおのの方向に向って、おのおのの武器を持っている。世には千手観音《せんじゅかんのん》という尊像もあるのだから、三十六や七は数に於て問題でないが、その生血の滴る現実感の圧迫にはこたえざるを得ない。
五体を見ると、逞《たくま》しい黒青色の黒光り、腰には虎豹の皮を巻き、その上に夥《おびただ》しい人間の髑髏《どくろ》を結びつけている。背後は一面の鮮かな火焔で塗りつぶされている。よく見ると、その火焔の中に無数の蛇がいる。おお、蛇ではない、竜だ。夥しい小竜大蛇がうようよと火の中に鎌首をもたげているのみではない、なおよく見ると、あの臂《ひじ》にも、この腕にも、竜と蛇が巻きついている。
顔面はと見ると、最初は、正面をきった不動明王のようなのばかりが眼についたが、その左右に帝釈天《たいしゃくてん》のような青白い穏かな面《かお》が、かえって物凄い無気味さを以て、三つまで正面首の左右に食《く》っついている。なおよく見ると、その三つの首のいずれもが三眼で、その眼の色がいずれも血のように赤い。その口には、牙をがっきと噛み合わせた大怒形《だいどぎょう》。
なお、その振りかざした三十六臂のおのおのの持つ得物得物を調べてみると、合掌するもの、輪《りん》をとるもの、槊《さく》を執るもの、索《さく》を執るもの、羅《ら》を握るもの、棒を揮《ふる》うもの、刀を構えるもの、印を結ぶもの、三十六臂三十六般の形を成している。
再び頭上を見直すと、さきには忿怒瞋恚《ふんぬしんい》の形相のみが眼に入ったが、その頭上は人間的に鬢髪《びんぱつ》が黒く、しかもおごそかな七宝瓔珞《しっぽうようらく》をかけている――
物に怖《お》じない暴女王の眼も、このまま見上げ見下ろしただけで消化するには混乱しました。その時、お銀様は甲州の家にあった「阿娑縛抄《あさばしょう》」一部を惜しいものだと思い出さないわけにはゆきません。
甲州の家には文庫が幾蔵もあった。お銀様は、それを逐一風を入れて虫干をしたことがあります。ゆくゆくは残らず、それを頭に入れるつもりでありましたけれども、その時は一通りの風入れでありましたが、「阿娑縛抄」百八冊を手がけてみたのも、その時のことでありまして、この大部の書のあらわすところが何物であるかに歯が立ちませんでした。他日必ず読みこなしてみせるとは、この女王の気象でありましたが、その時は、一種異様な大部な書物である、内容がなかなか食いつけないのは、その中には夥多《かた》異様の彩色絵で充たされている、その彩色絵が一種異様なグロテスクのみを以て充たされていて、いわゆるさしえの常識では全く歯が立たない。何を書いてあるものか知ら、これぞ世間に言う「真言秘密の法」を書いた本に違いない、ということを、その時にお銀様が感じました。
「真言秘密の秘伝書」――これは研究して置かなければならない、と心がハズンだのは秘密そのものの魅惑で、この女王は秘密を好むのです。その時は秘密の法は即ち魔術の一種で、超自然力以上の魔力の秘伝がこの本に書いてある、この本を読んだ人が役《えん》の行者《ぎょうじゃ》になれる――というような世俗的魅力がお銀様をとらえたのですが、その直下《じきげ》にこれをこなすの機会と時間とを与えられなかったから、いつか「阿娑縛抄」を読み解いてみせるとの心がけだけは失われていなかったのですが、それがあの時の火事で、すっかり焼けてしまいました。そのことを今になって、くやむの心がお銀様の胸に動いて来ました。
お銀様は剛情です。わからないことはわからないとして、知らざるを知らずとして問うことは、こ
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