味であります。

         八

 それはそれとして、お銀様が後壁の間に参入した瞬間に、お角さんとしては、これに追従を試むることを遠慮しました。というのは、後壁の間に参入、大元帥明王に見参ということは、お銀様だけの志願であって、お銀様だけに許されたというよりも、お角さんにとっては、よし、もし許されたからといって、猫に小判のようなものなのであります。特別に教養のあるものだけに許される特権でなければならないし、特別に教養の無いものが、それに追従することは、不敬であり、不遜であることを自覚しての、お角さんとしての遠慮なのです。
 そこで、明王に特別謁見の間を、お角さんは、次の間というよりも、奥書院の廊下に立って待受けておりました。そこに立っていると、またも本庭の余水の蜿々《えんえん》たる入江につづく「舟入の茶屋」を見ないわけにはゆきません。お角さんは、太閤様お好みの松月亭の茶室に、じっと見入っている。が、それとても、大元帥明王の画像の前に立つお銀様と同様の、色盲ならぬ色盲をもって、木石の配置だけを深く見入っているような恰好《かっこう》をしているけれども、内容極めて空疎なるは致し方なく、お茶を知らない、寂《さび》を知らない、わびというものを知らないお角さんは、ただ眼の前にあるからそれを見ているだけで所在が無いから、ことにお場所柄であるから、枉《ま》げて、つつましやかにしているだけのものなのです。
 その時、廊下の彼方《かなた》で、高らかに経を読む声が聞えました。多分お経だろうと思われる。お寺へ来て朗々と読まれる文言を聞けば、お経とさとってよろしい。お経は何のお経だかわからないが、その読み上げている主は門前の小僧であることが、お角さんによくわかります。門前の小僧ではない、本当は門内の小僧なのですが、さいぜんから門前の小僧にしてしまっているあの薄気味の悪いほどよく似た、びっこの小僧の読み立てる声に紛れもないと思いました。
 全く、お角さんの思うことに間違いなく、たしかに右の門前の小僧が、廊下の一端に膝小僧を据《す》えて、朗々と音を挙げていることは確実なのですが、それは、正式に机を置き、経文を並べて読んでいるのではない、膝小僧と談合式に、上の空で暗誦を試みているものであります。何を読み上げているのか。注意して聞けば、次のような文章を読み上げているのです。
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「鎮護国家ノ法タル大元帥御修法ノ本尊、斯法《しほふ》タルヤ則《すなは》チ如来《によらい》ノ肝心《かんじん》、衆生《しゆじやう》ノ父母《ぶも》、国ニ於テハ城塹《じやうざん》、人ニ於テハ筋脈《きんみやく》ナリ、是ノ大元帥ハ都内ニハ十|供奉《ぐぶ》以外ニ伝ヘズ、諸州節度ノ宅ヲ出ヅルコトナシ、縁ヲ表スルニソノ霊験不可思議|也《なり》」
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 音をたどればそういうような文言を読み上げているのだが、お角さんには、そのなにかがわからない。ただ、お経を読み上げているとのみ聞えるのですが、わからないのはお角さんばかりではない、読んでいる御当人もわかっているのではないから、ただ音を並べているだけなのが、そこが即ち、お角さんの言う門前の小僧が習わぬ経を読むもので、こうして無関心に繰返しているうちに、説明となり、密語となって巻舒《けんじょ》されることと思われます。
 お角さんは、そのいわゆる、習わぬ経を繰返す門前の小僧の咽喉《のど》が意外にいいことを感づくと同時に、これをひとつもの[#「もの」に傍点]にしてみたら、どんなものであろうという気がむらむらと起りました。
 もの[#「もの」に傍点]にするとは、何かお手のものの商売手に利用してみてやろうじゃないかという謀叛気《むほんぎ》なのであります。このお寺の納所《なっしょ》で、案内係であの小坊主を腐らせてしまうのは惜しい。惜しいと言って、なにも惜しがるほどの器量というわけではないけれど、米友でさえも、利用の道によっては、あのくらい働かして、江戸の見世物の相場を狂わしたことがある。いまさし当り何という利用法はないが、一晩考えれば必ず妙案が湧く。第一、あのお経を読んでいる咽喉がステキじゃないか、咽喉が吹切れている、あれを研《と》いで板にかければ、断じてもの[#「もの」に傍点]になる――とお角さんが鑑定しました。
 発見と、鑑定だけでは、もの[#「もの」に傍点]にするわけにはゆかぬ。人間を買い取るに第一の詮索《せんさく》は親元である。親元を説くことに成功すれば、人間の引抜きは容易《たやす》いことだ。ところで、あの小坊主の親元ということになってみると、存外|埒《らち》が明くかも知れない。というのは、いずれもあの年配の子供を寺にやるくらいのものに於て、出所のなごやかなるは極めて少ない。いずれは孤児であるとか、棄児《すてご》で
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