、前なるは必死で、しがみついて放すまいとする、その事の体《てい》が平常ではありませんから、神尾が立ちどまって、篤と見定めると、彼等が押し合い、へし合いしている中央に、一台の馬車があるのであります。
 その一台の馬車を中心にして、これらの群集が、押し合い、へし合い、なぐり合いをしているのだということがわかりました。つまり我勝ちにあの馬車に乗ろうとして、押し合い、へし合い、もみ立てているのだということがわかりました。
 馬車といっても、バスといっても、その頃はまだ珍しいものでありました。その当時に於ては、まだ、バスというものも、馬車というものもなかったから、神尾主膳には、バスも馬車もわからない。なんでみんなが、あれを取りまいてこんなに騒いでいるのか、それがわからない。ことに、さいぜん食傷新道で見た行列は、おさんどんや、山猿連のようだが、これは見ていると、しかるべき身上の奴が多い。町人では大尽株《だいじんかぶ》、一党の頭株といったような連中までが、あの通り、血眼《ちまなこ》になって取っつき引っついている、見られた図ではない。
 それをまた、世間知りの渡り仲間が説明してくれました。
 つまり、このごろ「馬車」というものを流行《はや》らせた奴がある、やっぱり毛唐かぶれで、あっちから見て来たやつの猿真似なんでがんしょうが、ごらんの通り、大八車の上へ四本柱を押立て、ズックで屋根を仕かけ、中へ桟敷を立て込んで、早く言ってみればそれ、船に屋形船というのがありまさあ、あの伝を馬で行っただけのもので、屋形車といったもんでがんしょう、それを馬で引かせてトット、トットと走らせ、一人前おいくら、先様《せんさま》お代りという仕組みで席料を取る、それが面白いと言って、流行物《はやりもの》になり、われ乗り遅れじと、あの通りの大繁昌。
 ちぇッ! これは食い物とは違うが、先を争ってガツガツの醜態は甲乙なし!
 かく正面から、乗り遅れまじの血眼の大手のほかに、ひそかに裏へ廻って、御者に袖の下をつかって、早くも席に納まり返っている奴がある、あいつらの得意げな面《つら》を見ろ、ふんぞり返って幅を取って、親類の奴や、おべっかの奴を引立てて、納まり込んでいるあいつらの面を見ろ、どんどん焼の場合と違って、こいつらが、みな相当身分のありげな奴だけに一層あさましい、こいつら、やっぱり場違いの江戸っ子だろう、いかに下落したからといって、本場の江戸っ子に、あんな奴がありっこはない。
 時勢は、どうか知らないが、お膝元のこの醜態はどうだ。
 神尾主膳の面は、赤怒から白怒に変って行くもののようであります。

         六十八

 昌平橋を渡って姫稲荷《ひめいなり》のところへ来ると、そこにまた人だかりがあります。見ると願人坊主《がんにんぼうず》がチョボクレをうたっている。
 本来、願人坊主はチョボクレを語るべきものではない。これは東叡山の配下で、寒い朝でも赤裸で、とうとうと言って人の門《かど》に立って銭貰《ぜにもら》いをするのだが、無芸と無頼とを以て聞えている。どうかすると謎々《なぞなぞ》のようなものを持って来るのもある。一文人形を並べて、これはこれでも王子の稲荷の大明神、色は白くも黒助稲荷なぞと出鱈目《でたらめ》を言って、一文人形を二三十も並べて、いちいち名前をくっつけて銭貰いをすることなんぞは、芸ある方のうちだが、この願人坊主は、能弁にチョボクレを唱えているところを見ると、願人坊主としては知能のある方だと思って、暫く耳を傾けていたが、その文句に何ぞ思い当ることがあると覚しく、一くさり終ると、渡り仲間を使にやって、そのチョボクレの願人坊主を附近の縄のれんに招き寄せました。
 神尾主膳は、件《くだん》の願人坊主を縄のれんへ連れ込んで、これに一杯飲ませ、
「さて、只今、その方が姫稲荷で唄ったチョボクレを、もう一遍ここで唄ってくれ、いくら長くてもかまわん、初端《しょっぱな》から終りまで唄って聞かせてくれ」
「お耳ざわりで恐れ入りました、どうか悪《あ》しからず御勘弁なすっていただきてえもんでござんす」
「勘弁はあるまい、その方も商売で唄っているのだろう、それが商売で、つまり食うと食わぬの境だから、それで唄っているのだろう」
「御意《ぎょい》の通りにございます、しがねえ商売でございますが、これも意気地なしの身過ぎ世過ぎ、致し方ぁございません」
「お前を叱っているのじゃないぞ、後学のために一つ聞いて置きたいのだ、さいぜんの立聞きで、よっぽど面白いと思ったが、忙がしくて追いかけきれない、ここで改めてゆっくり一つ聞かせてもらいたいのだ」
「唄えとおっしゃられると、これが商売でござんすから、唄わねえとは申し上げませんが、なにぶん作が作でございますから」
「誰の作だ」
「ええ、その作者てえのがわか
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