理の多分を知りません。あるところは知り過ぎているが、知らないところは、他国の人の知らないよりも知らない、そういう意味に於て、江戸の市中の再吟味ということが大切だと思いました。たとえば今日、洋行する人が、あわてて日本の内地の名所見物をして置いて出かけるというのと、同じような筋合いになるでありましょう。
 このたびの就職から、新しく雇い入れた渡り者の年寄の仲間《ちゅうげん》を一人従えて、市中見物の門出に、根岸から、広小路の方へ出て見ると、食傷新道《しょくしょうしんみち》に夥《おびただ》しい人の行列がありました。無数の人が長蛇の列をなして、町並の軒下に立って、三丁も五丁もつながっている。
「何だい、あれは」
「どんどん焼を買いに出たのでございます」
「どんどん焼?」
 神尾が立ちどまって注視しました。どんどん焼を買うべく、この早朝から、この人出。タカがどんどん焼ではないか、神尾には何の意味だかわからない。それを渡り者の老仲間に心得があると覚えて、語り聞かせることには、
「近ごろは、ああして、どんどん焼が御大相に売れるんでございます、朝早く行きませんと売切れになっちまうんでございまして、それであの通り行列がつづきます」
「ここのどんどん焼はそれほど名物なのか、特別に旨《うま》いのか」
「いいえ、べつだん旨いというわけでもございませんし、近頃の新店《しんみせ》で、べつだん名物というわけでもございませんが、変な風説が起りまして、近ごろは、ああやって飲食の前へ人立ちをするのが流行《はや》り出しました」
「変な風説というのは、いったい何だ」
「なあに、つかまえどころがあるわけではございませんが、つまり、関東と、関西と、近いうちに大合戦がはじまる、いつ、薩摩や長州が、江戸へ攻め込んで来ないものでもない、そう致しますと、食糧がひっぱくになる、軍の方の兵糧には困りませんが、一般市民が食うに困る、米も出廻らなくなるし、麦も来なくなる、そういうわけで、どんどん焼が急に売れ出すようになりました」
「ふーむ」
と神尾主膳は、まだその行列をながめて突立っている。
 神尾が動かないから、渡り者の老仲間も動くわけにはゆかない。テレきってお傍についていたが、やがて、
「一つ買って参りましょうか」
「馬鹿!」
と、眼の玉の飛び出すほど、渡り者の老仲間が叱り飛ばされました。
 渡り者の老仲間は、せっかく親切ごころで言ったのに、頭ごなしにやられたので、何がお気に召さなかったのか、それがわかりません。見れば神尾は三ツ眼で、行列を睨《にら》んだまま、怒気と、軽蔑を満面に漲《みなぎ》らせている。
 馬鹿! 時勢が険悪だと言ったところで、天から矢玉が一つ降って来たわけではないぞ、地から薩長が湧いて来たわけではないぞ、それに今から食糧の心配をして、どんどん焼を食いたさに、こうして早朝に時間をつぶし、仕事をつぶして、行列を作るとは何たる醜態だ! これが江戸っ子の仕業か! 武士は食わねど高楊枝も古いものだが、およそ江戸っ子の全部が武士でないまでも、江戸っ子は江戸っ子としての恥を知らなければなるまい。こいつら、江戸っ子の皮をかぶった江戸っ子ではあるまい、他所《よそ》から流れ込んだ江戸っ子の居候共だろう。山猿や、百姓共が、ガツガツしてこのザマなんだ、少なくとも、二代、三代、江戸の水を飲んだ奴に、こんな恥を知らぬ奴はないはずだ。面《つら》を見てくれよう、面を見ればわかる、江戸っ子の面よごしめ!
 神尾主膳は、こう思うと、ズカズカ近寄って、その行列の面《つら》を二つ三つ、つかまえて調べてみましたが、
「御安直な面ぁしてやがる、大方、四国猿か、篠熊《ささぐま》の親類筋だろう」
 こう言って、悪態をつき、唾を吐いて歩き出したものですから、渡り者の老仲間《ろうちゅうげん》も、これに続きました。
 歩きながらも、怒気忿々《どきふんぷん》たる神尾は、繰返して胸の中で、
「江戸っ子も下落したもんだなあ、だが、この恥知らずは、江戸っ子ばかりの罪じゃねえぞ、政治が悪いんだ、まだ、天から矢玉が降って来たわけじゃアなし、西国の又者が攻め込んで来たわけでもなし、天保の飢饉がブリ返して来たというわけでもないのに、もう食物でガツガツしてこのザマだ、一つには江戸っ子の下落、一つには政治向の堕落、江戸の台閣には人間がいねえのかなあ」

         六十七

 こういう余憤に駆《か》られながら、神尾主膳主従は、昌平橋高札場のところまで来て見ると、橋のたもとから引廻し蕎麦《そば》に至るまで、また、人だかり、人騒ぎが穏かでありません。
 今度は、広小路の時のように一列は作らないが、無数の人がかたまって、押し合い、へし合い、後なるは前なるを引戻し、横から来るのは突きのけ押し倒し、襟髪を引っぱるもの、足もとをさらおうとする者
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