な、世を捨てたとは言い条、文字を弄《もてあそ》ぶようでは、まだ本物ではありませんね」
「おなぶりになってはいけません。本来、わたしは出家する気でこの姿になったのではございませんから、あなたのおっしゃる文字を弄ぶ方が本職で、お勤めは附けたりのようなものなのです」
「そうですか、いや、それはどちらでも拙者の利害にはなりませんよ。いやどうも、御馳走さまになりました、おかげさまで飢えを満たし、雨露をしのぎ、温かな一夜を恵まれ、これで生き返った心持です、この感謝の心の消えないうちに、お暇《いとま》いたしましょう」
「まあ、お待ち下さいませ、左様にお急ぎにならずともよろしいでしょう。そうして、あなたは、これからドチラへお帰りになりますの」
「左様、関の清水か――山科谷へ」
「そこへお帰りにならねばならぬ義理がおありなのですか」
「義理で帰るというわけではないのです、その辺へ落着くより仕方がないじゃありませんか、いまさら壬生《みぶ》へは行けないし、そうかといって十津川入りもできまいから」
「帰らなければならない義理がおありにならないならば、そうして、ドコにおいでになっても、お宅で皆様が御心配にならない限り、ここにおいでになってはいかがでございますか」
「それはまことに御念の入った御親切です、拙者のような浮浪人に、いつまでもここにおれとおっしゃるのですか」
「あなたの方でおさしつかえのない限り」
「夢ではないでしょうかなあ、こんな静かなところに、しばしなりとも、このうらぶれの身を休ませていただき得れば、夢にもまさる幸福なんですが、それで、あなたは後悔をなさるようなことはございませんか」
「懺悔《ざんげ》をしきった者には、後悔はないはずでございます、どうかお心置なく」
「はてな」
「何を考えていらっしゃいます、あなたは、夜具が一組しかないところへ居候《いそうろう》に来ては気の毒だと、そんなことを考えていらっしゃるのでしょう、それは御心配御無用よ――ちゃあんと融通の道はありますから」
「でも、危ないですよ」
「何があぶないものですか、あなたこそ、目も見えないくせに、足元があぶないとは、こっちから言って上げたいことなのです」
「では、お言葉に甘えましょうかな」
「そうして下さい、あなたに不自由をおさせ申しは致しません、その代り、わたしの仕事もお手つだいをして下さい」
「拙者の身で叶《かな》うことならば何なりとも」
「まあ、雨が降り出してきましたよ、これこそ本当にやらずの雨、今日は一日、あなたのお身の上話を承りましょう、お望みならば、わたしの前身……鬼でも蛇でもございませんが、お話し申し上げれば西鶴の種本になるかも知れません」
「しからば――」
侵入者は、ついに客人としてもて扱われることになりました。無制限の逗留と、無条件の寄食を許されて……
六十六
神尾主膳は、このたびの新しい使命の下に、いよいよ京都へ行くことにきめて、その暫時の名残《なご》りのような意味で、江戸の市中を一通り見て置こうと思いました。
そもそも、主膳がこのたびの使命というのは、前にしるしたように、全く無任所として、京都の鷹ヶ峰に住っておればいいということだけです。そうして遊びたいだけ遊んで、その見たところと、聞いたところと、感じたままを、江戸のある方面へ知らせればいいというだけの役目であります。つまり情報部とか、隠目附《かくしめつけ》とかいうような意味、悪く言えば一種の高等スパイのようなものらしいが、当人はそうは思いません。
まあ、昔の石川丈山という男の役どころをつとめると思えばいい。それに主膳はいささか気をよくしているのですが、この丈山は詩は作れない、歌は詠《よ》めないけれど、風流の道は心得ている、この風流というのが、御承知の通りの悪風流である分のことです。この男の使命を、なぜ石川丈山にたとえたかということは、当人にもまだよくはわからず、これに嘱する人もくわしくは説明しませんでした。スパイである、諜者である、という名よりは、詩仙堂の隠者になぞらえる方が聞きよくもあるし、当人の気持もいいというものです。
そういう意味で、しばらくはまた江戸の地を離れなければならない。長州征伐に行く軍人と違って、これは必ずしも生還を期せずという出征ではないから、これが江戸の見納めという意味にはならないが、それでも風向きの都合上、しばらくは帰れないと思わなければならない。よって神尾は、江戸の市中を一通り見学して置きたいという気になったものでしょう。
江戸に生れて、江戸を見ない人はいくらもあるものです。江戸も、本場を知って場末を知らない人もあれば、場末にいて盛り場を知らない人も、いくらもあるものであります。
神尾主膳も、祖先以来の江戸っ子でありながら、江戸というものの地
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