心うごかす人多かりけり、病を受けて命をはりける時、念仏すすめければ申すに及ばず、枕なるさほにかけたる物をとらんとするさまにて手をあばきけるが、やがて息たえにけり、法性寺辺に土葬にしてけり、其後、二十余年経て建長五年の比《ころ》、改葬せんとて墓をほりたりけるに、すべて物なし、なほふかくほるに、黄色なる水のあぶらの如くにきらめきたるが涌出《わきいで》けるを、汲みほせどもひざりけり、その油の水を五尺ばかりほりたるになほ物なし、底に棺ならんと覚ゆる物、鋤《すき》にあたりければ、掘出さんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを手を入れてさぐるに、頭の骨わづかに一寸ばかりわれ残つてありける、好色の道、罪ふかきことなれば、後までもかくぞありける、その女の母も同じ時に改葬しけるに、遥かに先だち死にたりける者なれども、この体かはらでつづきながらにありける」
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そこへ、また一つの魔がさして来ました。今までのは、偶然がもたらした内からの魔でありましたが、今度は外からさした魔であります。
「あれ、何かさし入りました」
書巻の眼は鞠《まり》のように飛んで、戸締りの桟《さん》に向ったのは、その戸の外で、縁の近くに忍び寄った、外からの何者かの気配があるからです。
昨晩、花尻の森から人魂《ひとだま》が飛んだのも、ちょうどこの時刻でありました。
六十三
今までは、内からさした魔であるのに、こんどのは、まさしく外からさした魔でなければならない。
「あっ!」
と、総身《そうみ》に水をかけられたように、立ち上った途端に、硯《すずり》の水をひっくり返してしまいました。机の上に書きさしの紙がべっとり、せっかく六道能化《ろくどうのうげ》まで来た校合の上に、硯の海が覆《くつがえ》って、黒漆の崑崙《こんろん》が跳《おど》り出します。
あわててそれを拭き、それを取りのけ、それをあしらい、しているうちに、また机の前へ坐り直しはしたが、ぞくぞくとして寒気《さむけ》がこうじ、肌がこんなに粟になる。
おぞけをふるうという心持。誰ぞ外へ人が来たらしい。
見廻すこの室の内、僅かに八畳の間、周囲の襖《ふすま》は名ある絵師に描かせた花野原。
絵に見る花野原をかきわけて、いまにも人が出そうでならぬ。
これではいけない、多年の平家物語の校合《きょうごう》も、せっかくこの六道能化まで来たのに、あとはめちゃめちゃ、ここでブリ返して、こんなに魔がさすようではならない。
老尼は、われと気を鎮めてみたが、魔障わが精進をさまたぐるか、と言って躍起となる意気もないようであります。というのは、この老尼は修行のために、ここに静処を求めたのではなく、狂言綺語《きょうげんきご》の閑居を楽しまんとする人であったからでしょう。様こそ法体にこしらえてはいるが、これも仏道精進のためというよりは、世間体をのがるるには、この様が最も許されやすいという身勝手から出でたもので、要するに趣味の人であって、修道の人でないからでしょう。五十路《いそじ》を越えて、まだこんなに水々しいところが何よりの証拠で、都にあって祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声を聞くよりは、ここに閑居して沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色の衰えざるを見ていたい。
そういう未練な仇《あだ》し心が、この場で、内外から魔の乗ずる隙を与えた、いわば自分の造りおけるわなに、自分がかかっておびえるようなものです。
でも、外からさした魔は、それっきりで、あとは音沙汰《おとさた》がありません。周囲を見廻す。秋草の中に何者かがおりそうな気持は変らないが、そうかといって、外からねらわれる心配さえ解ければ、内からさして来る魔の手は、いくらでも取消しの道はつくというものです。なんにしても、今晩はめちゃめちゃ、いやいや、昨晩もあの時間からめちゃめちゃでした。花尻の森から人魂《ひとだま》が飛んだというあの噂を聞いて、それからいい心持はしなかった、あれを、知らず識《し》らず今晩まで持越したもの、こんな晩には早寝に限ると気がついたが、いま寝についても早寝にはならぬ。とにかく、さんざんの体で、この場の校合はあきらめ、あとの補修は明日のこと――
そう思って、書斎の次の間は寝間、そこにしつらえてある夜のものに埋もれて、今日の厄落《やくおと》しを終ろうと、すらりと立って、片手には丸形の行燈《あんどん》を携え、秋草の襖へ手をかけると、なんとなく心が戦《おのの》く、その気持を取直して、これもスラリと襖をひらき、誰に憚《はばか》ることもない己《おの》が独自の世界の中に、一足踏み入れると……
「おや」
と言って、その取落そうとした行燈を投げ込むようにつきつけると、侵入すべからざるところに侵入者があって、自分の寝間の中に、しかも、こちらが
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