前の通り、押しつぶされるように前屈みの姿勢で、えっちら、おっちらと歩み出し、岩倉村を経て東山の方へ姿を消してしまいました。

         六十二

 ここは、三千院とは対岸的の存在。三千院の大伽藍《だいがらん》に比べると、極めてみすぼらしい存在ではあるが、その名声を以てすると三千院にもまさる寂光院。
 寂光院の塔頭《たっちゅう》に新たなる庵《いおり》を結んだ、一人の由緒《ゆいしょ》ある尼法師、人は称して、阿波《あわ》の局《つぼね》の後身だとも言うし、島原の太夫の身のなる果てだと言う者もあります。
 この尼法師、年はもはや五十路《いそじ》を越えているが、その容貌はつやつやしい。机に向って写すは経文かと見ると、そうではなく、平家物語の校合《きょうごう》をしているのであります。
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「文治元年|九月《ながつき》の末に、かの寂光院へ入らせおはします。道すがらも四方《よも》の梢《こずゑ》の色々なるを、御覧じ過ごさせ給ふ程に、山陰《やまかげ》なればにや、日もやうやう暮れかかりぬ。野寺の鐘の入相《いりあひ》の声すごく、分くる草葉の露しげみ、いとど御袖濡れまさり、嵐烈しく、木の葉みだりがはし。空|掻《か》きくもり、いつしか打ちしぐれつつ、鹿の音かすかに音づれて、虫のうらみも絶え絶えなり。とにかくに取集めたる御心細さ、譬《たと》へ遣《や》るべき方もなし。浦伝ひ、島伝ひせしかども、さすがかくはなかりしものをと、思召《おぼしめ》すこそ悲しけれ。岩に苔《こけ》むしてさびたるところなれば、住ままほしくぞ思召す。露むすぶ庭の荻原霜枯れて、籬《まがき》の菊の枯れ枯れに、うつろふ色を御覧じても、御身の上とや思しけむ、仏のおん前へ参らせ給ひて、『天子しやうりやう、じやうとうしやうがく、一門亡魂、とんしよう菩提』と祈り申させ給ひけり。
いつの世にも忘れ難きは先帝の御面影、ひしと御身に添ひて、いかならむ世にも忘るべしとも思召さず。さて寂光院の傍らに、方丈なる御庵室を結んで、一間をば仏所に定め、一間をば御寝所にしつらひ、昼夜朝夕の御勤め、長時不断の御念仏、怠ることなくして月日を送らせ給ひけり」
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 右の文章、平家物語|灌頂《かんじょう》の巻のうちの一節、天子しょうりょう以下の仮名文字に漢字をあてはめんとして、校合の筆を進めておりましたが、ふと、参考の書を求めんと、書棚に立った時から、この若々しい老尼の頭に魔がさしました。
 というのは、参考書として、仏典の字引を求めて来るつもりのを、ついして、机の上に持ち来たしたところを見ると「古今著聞集《ここんちょもんじゅう》」。
 しかも、手に当った丁附《ちょうづけ》のかえしが巻の第八とありましたことから起ったのです。
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「ある人、大原の辺《ほとり》を見ありきけるに心にくき庵ありけり、立入つて見れば、あるじとおぼしき尼ただ独《ひと》りあり、すまひよりはじめて事におきて優にはづかしきけしきたり、しかるべきさきの世のちぎりやありけん、又此人をたぶらかさんとて魔や心に入りかはりけん、いかにもこのあるじを見すぐして立ちかへるべき心地せざりければ……」
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 これから平家物語が、著聞集に乗換えられてしまったのは、魔の為《な》すことというよりほかはありますまい。かくて心が乱れそめて、
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「ちかくよりてあひしらふに、この人思はずげに想ひて、ひきしのぶを、しひて取りとどめてけり、あさましう心うげに思ひたるさま、いとことわりなり、何とすとも只今は人もなし、あたりちかく聞きおどろくべき庵もなければ、いかにすまふとてもむなしからじと思ひて、ねんごろにいひて、つひにほいとげてけり、力及ばで只したがひゐたるけしき、ひとへにわがあやまりなれば、かたはらいたき事かぎりなかりけり、したしくなつて後、いよいよ心地まさりて、すべきかたなかりければ、さてしも、やがてここにとどまるべきものならねば、よくよく拵《こしら》へ置きて男帰りにけり、さてまた二三日ありて尋ね来てみれば、かのすみかもかはらであるじはなし、かくれたるにやとあなぐりもとむれども、つひに見えず、さきにあひたりしところに歌をなんかきつけたりける、
 世をいとふつひのすみかと思ひしに
   なほうき事はおほはらのさと」
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 それから物ぐるわしくなったこの若々しい老尼は、六道も灌頂も打忘れて著聞集に引かれて行くことが浅ましい。
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「山に慶澄註記といふ僧有りけり、件《くだん》の僧の伯母《をば》にて侍《はべ》りける女は、心すきすきしくて好色はなはだしかりけり、年比《としごろ》のをとこにも少しも打ちとけたるかたちをみせず、事におきて、色ふかく情ありければ、
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