いか、こっちの知ったことではない。この老婆は、最初から最後までお腹がすいたことばっかり言っている。まるでお腹をすかせるためにこの世に生れて来たような婆さんだと竜之助が思いました。それにもかかわらず、老婆は繰返して、
「なにしろお腹がすいてたまらないものでございますから、そんなに食べられては困ると言って、追い出されてしまいました、よんどころなく、こうしてお釜を背負って出て参りましたが、寂光院に限ったことではございません、ドチラへつとめましても、お腹がすくものでございますから」
「食べるぐらい結構だよ、年寄でそのくらいお腹がすくのは、つまり身体《からだ》が健康な証拠だね」
竜之助も詮方なしに、慰め気分で言うと、老婆は、
「はい、はい、そう思って、あきらめるよりほかはございませんが、なにぶんにも、食べるとは食べるとは直ぐにお腹がすいてしまいますので、ドコにも永く勤めることができません、よんどころなく、こうしてお釜を背負っては、旅に出るのでございます」
「なんにしても、エラく大釜らしいが、いったい何升炊きだい」
「はい、八升炊きでございますよ」
「八升炊き! 驚いたなあ、その釜で飯を焚いて食べて、まだお腹がすくのかい」
「はい、はい、それでも直ぐにお腹がすいてしまいますが、意地にも我慢ができないのでございますよ」
斯様《かよう》に話をしている間に、釜の中がフツフツと沸騰をはじめて参りました。この時、竜之助がフト考えるよう、
「婆さん、釜が沸いてきたようだが、米はどうなんだい、釜ばかり仕掛けても、中へ入れるお米というものがあるのかい」
「はい、はい、お釜一つでさえ、この通り重いものでござんすから、とても、この中へ入れて炊くお米まで持って歩くわけには参りませぬ」
「冗談を言ってはいけない、食べるためには、釜よりは米がさきだぜ、米が有っても釜がないという時には、何とか遣繰《やりく》りはつくだろうが、釜がこの通りグラグラ沸き出しているのに、米がないでは、食べて行けないじゃないか」
「いえいえ、お米ばかりが食物ではございません、肉というものがございます」
「肉! 贅沢《ぜいたく》だなあ、米のない里はないが、肉はそう簡単には求められまいぜ。だが、婆さん、肉ならばお前、持合せがあるというのかい」
「はい、それはもう不自由は致しませぬ、肥え太った美肉というわけには参りませんが……」
と言ったかと見ると、婆さんはやにわに、腰に巻いた真紅のゆもじを引脱いで、真裸になったと覚えたが、身を躍《おど》らしてグラグラと沸騰する大釜の中へ、われとわが身を投げ込んでしまいました。この早業には、さすがの竜之助も、
「あっ!」
と言って見えない眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、見えないはずの眼がありありと見える。釜の中では老婆の肉が盛んに煮えつつあるのです。なるほど、これは肥え太った美肉とは言えないが、骨附きの痩肉《やせにく》ではあるが、肉は肉に相違ない。肉の持合せに不自由はないと言ったが、なるほど、これはお手の物だから、携帯洩れのあろうはずはない。これ以外、別段、野菜の附合せ物を入れたりするわけでもなし、砂糖、醤油、味噌、割下《わりした》といったような調味料は、いささかも加入されないが、肉そのものは、骨ごとよく煮上っている。竜之助を、あっ! と言わしめた瞬間、また以前に変らぬ老婆の声があって、
「いかがでございます、よく煮えました、あなた様も、一片《ひときれ》召上れ」
いったい、ドコで物を言うのかと、見えないはずの眼をみはって、そこらを見廻すと、婆さん、以前と同じような澄ました面《かお》で、釜前に火をくべていて、片手には大串《おおぐし》を持って、それで釜の中の肉を突きさしては頻《しき》りに食べている。
「一片召上ってごらんなさいませ、とても若い肉のように肥え太ってあぶらみはございませんが、噛みしめると、少しは味も出て参ります、一ついかが」
と言って、釜の中へまたも大串を突込んで、一片の肉をつつき出して竜之助の手に持たせつつ、自分はほかの串へさしては食い、食ってはさし、その貪《むさぼ》り食うこと、全く餓鬼そのものの形相であります。老婆から授けられた一本の串を、さすがの竜之助も食い兼ねて、持扱っている間に、飢えたる老婆は早くも一釜の肉を平げてしまいました。
それと同時に、大釜の下に焚かれた焚火も、ばったりと消えてしまいますと、すっくと立ち上った老婆の腹は、脹満のように膨《ふく》れ上っておりましたが、
「やれやれ、これで当分お腹が持ちましょう、飛んだお邪魔を致しました」
と言いながら、大釜の一端に口をつけると、釜の中に残った汁を、鯨のように吸い込んでしまい、それから以前のように大釜には縄をからげて、われとわが背中へ背負い込み、そのまま、以
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