んりき」に傍点]の百や、米友のあとを受けて、夜興行の一芝居を見せるかと思えば、何の、岩倉村はホンの素通り。
 一見はやめる者のような疲れで、身を杖に持たせてホッと息をきってみたが、未練気もなく思いきって、すっくすっくと歩み出し、八瀬《やせ》大原《おおはら》の奥まで、まっしぐらに、或いはふらりふらりと侵入して行くもののようであります。
 今晩はドチラへ、はい、大原の寂光院《じゃっこういん》に美しい尼さんがいると聞いたから、それを訪ねてみたいのです。そうか、その美しい尼さんがいたらどうする、いなかったらどうする、どうもこうもありはしない、ただ六道輪廻《ろくどうりんね》の道筋をたずねてみたいばっかりだ、と答えれば、まず上出来の方である。
 ともかくも、こうして、あっけなく岩倉村を素通りした机竜之助は、敦賀街道を北に向って進み行くと、行手の山の峡《かい》から、人が一個出て来ました。万籟《ばんらい》静まり返った比叡と鞍馬の山ふところ、いずこからともなく、人が一個出て来た、その物音で、足をとどめてその気配に耳を傾けました。眼を以て見るのではない、耳によって見ると、左の方、瓢箪崩れの方の谷からやって来たものと覚しきが、近づくに従って、その足どりの重いことと、息をせいせいきっている調子を嗅ぐと、何やら重荷を負いつつ、歩み来《きた》るもののようです。しかも、重き荷を負うて遠き道を来りしこの旅客は、年もはなはだ老いたる人のようであります。
 竜之助は、杖にもたれて、それを待伏せしておりますと、現われたのは察しの通り、息せききって、背に余る大きな荷物、これは八升炊きの大釜でした、この大釜を縄でからげて、背中へ背負い込んで、屈《かが》んで歩いて来たところは、釜を負うて来るのではない、釜に押しつぶされながら、その下を這《は》い出して来るような形であります。しかも、案《あん》の定《じょう》、その当人は、老いぼれの痩《や》せこけた、肋《あばら》の骨が一本一本透いて見える、髪の毛の真白なのを振りかぶり、腰巻の真紅《まっか》なのを一腰しめただけで、そのほかは、しなびきった裸体のまま、さながら餓鬼草紙の中から抜け出したそのままの姿で、よろめいて来るのでありました。
「はい、御免下さりませよ」
 ここに人ありと見て、老婆は竜之助の前を通る時に、言葉をかけたものですから、竜之助が、
「この夜更けにドコへお行きなさる」
 これは、こちらから尋ねてしかるべき言葉なのですが、重い荷物に押しつぶされている老婆は、咎《とが》むべき人に咎められても否やは言えない。
「やれやれ、お腹がすきました」
 もう我慢がしきれないもののように、竜之助の前で前のめりに、のめってしまいました。
「お気をつけなさい」
「どうも有難うございます、もうもう、お腹がすいて、トテも歩けませぬ」
 この老婆は、荷物が重いということを言わないで、お腹がすいたことばっかり言っている。八升炊きの釜の重さは、どうつぶしにかけても八貫目はあるでありましょう。この老いぼれの身で、八貫目の釜を背負い歩くということは、事そのことだけで、圧倒的の重みであろうのに、重いことは言わないで、お腹がすいたことだけを言う。そこで前のめりにのめって、老婆は、己《おの》れを圧しつぶした八升炊きの釜の下から這《は》い出したと見ると、その釜を立て直したが、ちょうど、そこに頃合いの大石が二つ三つ並んでいたものですから、その上へ、件《くだん》の大釜を仕掛けて、やがて近いところの樋《とい》の水を引いて、釜の中へ適度に流しかけたかと思うと、今度は、近いところの落葉枯枝をかき集めて、その釜の下へ火を焚きつけました。
「婆さん、お前、これから飯を炊《た》こうというのかい」
「はい、お腹がすいて、どうにもこうにもやりきれませんから、御飯を焚いて腹ごしらえをして、それから、また出かけようと思います」
「そうか、では、ゆっくりおやりなさい、火が焚きついたら、拙者もあたらしてもらいましょう」
「さあさあ、どうぞ」
 竜之助は、この婆さんの側に立って、釜の下に手をかざしながら、つまり、アメリカの大統領と同じような炉辺閑話の形式で、問答をはじめました。

         六十一

「婆さん、お前ドコから来た」
「はい、大原の寂光院から出て参りました」
「なに、大原の寂光院?」
 寂光院と聞けば、美しい尼さんがいるとのことだが、いやはや、見ると聞くとは大きな相違、見るわけにはいかないが、気分でちゃんと受取れる、老いさらばえた上に、お腹がすいているんでは問題にならない、と竜之助が手持無沙汰になっていると、老婆は頓着なしに、
「寂光院の水仕《みずし》をつとめておりましたが、なにしろ、お腹がすきましてねえ、あなた」
 ねえ、あなたもないものだ、お前のお腹がすいたかすかな
前へ 次へ
全97ページ中71ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング