きゃはん》の紐《ひも》を結び直したけれども、二人の口頭には別になんらの人物論も起りません。
がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、あんまりばかばかしいから、ドコぞで一杯飲んで行くと言って、米友と立別れ、米友は蹴上《けあげ》、日岡と来た通りの道を辿《たど》って山科へ帰りました。
五十九
その夜のこと、昼さえも静かな岩倉谷の夜もいたく更け渡る頃、たった一人の白衣《びゃくえ》の行者が、覆面をして両刀を落し差し、杖を携えて、飄々浪々《ひょうひょうろうろう》としてこの岩倉谷に入り込みました。
こう書き出してくると、夜前、ああいう光景を描き出した場所柄、またもや一層の妖気魔気が影を追うて来なければならないのですが、事がらはそれに反対で、妖気魔気どころか、気の利《き》いた化け物は、面をそむけて引込むが当然なのです。
昭和十六年五月十日の東京朝日新聞の映画欄の記者でさえも、こういうことを書いている――
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「が、元来、かういふ虚無的なやうな、感傷的のやうな嫌味ツたらしい浪人は、日本映画の昔から好物とするもので、現代人の心理を詰めこんだつもりで、深刻がつてゐるものの、実は、すこぶる浅薄陳腐といふべし……」
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といったようなわけで、この浅薄陳腐なる嫌味ったらしい好みが、恥を知らない日本のうつし絵の食い物となっているも久しいものだ。今から三十年前、武州多摩川の上流から颯爽《さっそう》と現われた、これが原生動物と覚しき存在は、こんな無恥低劣な姿ではなかったはず。
何の因果か、この原生動物と覚しきが、三十年の昔、姿を現わして以来、この形のうつしが一代の流行を極めて、出るわ、出るわ、頭巾をかぶせたり、五分月代《ごぶさかやき》を生やさせたり、黒の紋附を着流させたり、朝日映画子のいわゆる浅薄陳腐な嫌味ったらしい化け物が、これでもか、これでもかと、凄くもない目をむき出し、切れもしない刀を振り廻して見得《みえ》を切った、その嫌味ったらしい浅薄陳腐な化け物が、三十年の今日、箱根以東の大江戸の巷《ちまた》から完全に姿を消してはいない。朝日のきらきらする市上にまで戸惑いをしている。
こいつらは、人の感情を保護するということを知らない、いわんや向上せしむることをや。模倣が程度のものであることも知らない、剽窃《ひょうせつ》が盗賊の親類であることも知らない。どだい、こういう恥を知らぬ化け物国に、大きな精霊の生れた例《ためし》があるか。
伝うるところによると、机竜之助なるものは、もはや疾《と》うの昔に死んでいるそうだ。その生命は亡き者の数に入っているのだそうだ。彼の生命を奪ったものとしての最も有力なる嫌疑者は、暴女王のお銀様が第一に数えられる。少なくとも胆吹御殿のあの地下、無間《むけん》の底につづく密室の中で、病後の竜之助なるものを完全に絞殺して、その地下底深く投げ落して秘密に葬ったという説を、まことしやかに言い触らして歩く者もある。
それにもかかわらず、その以後の活躍に、長浜の浜屋の一間の暗転もあれば、大通寺友の松の下の犬の殺陣もあるし、琵琶の湖上の一夕ぬれ場もある。それら、次から次へ展開さるるは、それはセント・エルモの戯れであって、サブスタンスの存在ではないということを言う者もある。しかし、御当人は、左様な噂を一切見えぬ後目《しりめ》にかけて、山科谷から、島原の色里にまで、影を追うて往年の紅燈緑酒の夢を見て帰ったという消息をもまことしやかに伝える者もある。或いはまた月光霜に氷る夜半、霜よりも寒く、薄《すすき》よりも穂の多い剣の林の中を、名にし負う新撰組、御陵隊が、屍《しかばね》の山、血の河築くその中を、腥《なまぐさ》い風の上を悠々閑々として、白衣の着流しで、ぶらついていたという噂を、見て来たように話す者もある。それが今晩、またも、岩倉谷に現われたといったからとて、誰も本当にする者もない代り、嘘だという者もない。
前にも言う通り、気の利いたお化けならば、とうに引込むべきはずのところを、かくも性懲《しょうこ》りなくふらつき出すのは、他の好むと好まざるとにかかわらず、白業黒業《びゃくごうこくごう》が三世にわたって糸を引く限り、消さんとしても消ゆるものではあるまい。大久保市蔵が岩倉谷に入ると、事実上、日本の枢軸は震動するのだが、この幽霊がここに姿を現わしたとて、もはや、草間にすだく虫けらも驚かない。
六十
夢遊病者としてもまた、虫けらを驚かすことを好まない。さりとて、岩倉三位をたずねて錦旗の製法を検究しようではなし、賀川肇の生腕をそっと掘り返して食おうというのでもなし。
岩倉三位にも、中御門中納言にも、いっこう用向きのない人、せっかくこの岩倉谷に入って、がんりき[#「が
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