さお》に製作せしめた錦旗の図面によって、薩摩と長州の傑物が二人、町人にその製作を命ぜんとしていることであります。これは作意ではなく、史実であり、明白なる記録でありますが、錦旗そのものも、いまだ名分を備えざる間は、ただ一個の織物に過ぎませんから、誰がどう扱おうとも、さして問題にならない分のことです。
 さても、件《くだん》の密談が終って、洛北岩倉村から、またも馬で帰る両士の馬上ながらの会話を聞いていると、次のようなものであります。まず品川弥二郎が言いました、
「岩倉三位には恐れ入ったねえ。実を言うと、わたしは日頃あなたから、岩倉三位はエライエライと言われるものだから、よっぽどの人物と思っていましたがねえ、今日はじめて、あの中庭の柴戸から、ひょっこり姿を現わしたその人を見て、非常な幻滅を感じましたよ、あの通り、背は低いし、色は黒い――背は低く、色は黒くても、人品とか、男ぶりとか立勝《たちまさ》ったものがあればまだしもだが、ひょっこり着流しで、鍬《くわ》を下げて面《かお》を出したところを見て、非常な失望を感じましたよ、こんな風采の揚らない男に、いったいどれだけのエラさが隠れているのか、こんな人物を、エライエライと担ぎ上げ、持ち上げるのは、大久保さんにも似合わないことだ、お公卿《くげ》さんに免じてのお追従《ついしょう》だろう、本来、お公卿さんなぞに、そんなにエライ人物が有りようはずはない、位が高い、伝統が物を言うから、人があんまり持ち上げ過ぎる、というよりは、天下の志士とかなんとか威張ってみても、所詮|地下《じげ》の軽輩の眼には位負けがする、そうでなければ、仕事の都合上、持ち上げて置いて利用する程度のものにしか考えられなかった、岩倉とて何ほどのことがあろうと、あの瞬間に、わしは一種の軽蔑の念をさえ持ちましたがな、あのそれ、庭に手ずから築いた土饅頭《どまんじゅう》を指して、今ここへ人間の生腕を埋めたところだ、誰かいたずら者めが、賀川肇の腕を切って来て、三宝にのせて玄関へ置きばなしにして行ったから、それを今ここへ埋めたところだと、平然として談《かた》っているあの度胸には、実際驚きましたなあ、当時、豪傑といわれる武家の大名のうちにも、あれだけの度胸を持った奴はありますまい、刺客を前にしてあの底の知れない図々しさを持った者は、血の雨をくぐって来た浪士のうちにも、あんまり多くはない、お公卿さんにも、あれだけの度胸があるものかと、僕はまずそれで参ったよ。さて、通されて密談ということになって、三位から討幕の秘計を諄々《じゅんじゅん》と聞かされてみると、今度はその内容に於て、実際恐れ入った、我々の考えている以上の周密と、思っている以上の大胆と、百折不撓《ひゃくせつふとう》の決心を持っておられるには驚いた。日本はじまって以来の政治上の大改革を行う、この精神と、方法と、手段と、順序を、大所から細微に至るまで、ああも大胆に、且つ周到に包蔵しているあの頭は大したもので、そう思って、僕はあの人の頭の形をつくづくと見直すと、どうもその形からして尋常人の頭ではない、あれは大したものですぜ、お公卿さんの冠を取った方がかえって頭が大きくなる、あれだけの頭は今日の日本にありませんなあ。先頃《せんころ》まで三奸《さんかん》の随一に数えられたが、賢の賢たる所以《ゆえん》も備わるが、奸の奸たる毒素も持たざるなし、朝《あした》には公武の合体を策し、夕《ゆうべ》には薩長の志士と交るといえども、表裏反覆の娼婦の態を学ぶものではない、幕府をも、薩長をも呑んでかかっている腹がありますぜ。古来のお公卿さんは、位ばっかり高くて実力がないから、時の日和《ひより》で、あっちへべったり、こっちへべったり、木曾が出頭すれば木曾に、義経が迫れば義経に、頼朝が怒れば頼朝に依存して、而《しこう》して、その間の鞘《さや》を取って小策を弄《ろう》するのが即ち公卿の身上と見てかかると、岩倉三位に於て失敗する、当時、堂上お公卿さんにも出色の人物は多いが、岩倉三位に比べると同日の談ではない、江戸に依存せずとも、薩長を操縦せずとも、立派に大業を成せる人だと僕は思いました。大久保さん、おたがいにしっかりしないと、薩摩も、長州も、岩倉三位に食われてしまいますぜ」
 品川弥二郎は、はじめて会った岩倉三位に就いての印象を、大久保市蔵に向って右のように物語りつつ、やがて京の町に入り、薩州邸へと帰着するかと思うと、上京寺町通り裏、石薬師門外のあたりで二人の姿が消えました。これより先、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と、宇治山田の米友も、件《くだん》の如き首《くび》っ枷《かせ》の芸当を以て京の町外れまで一散に走りましたが、そこで、米友は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の肩から下り、がんりき[#「がんりき」に傍点]は脚絆《
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