わからないと言えば、がんりき[#「がんりき」に傍点]のようなのぼせ者を煽《おだ》てて、この岩倉村に東西きっての大バクチがあるから行ってみろと、貸元までつとめて、がん[#「がん」に傍点]ちゃんが勢い込んでかけつけてみはみたが、事は以上示すところの如く、馬鹿をみたようなものであった。自身、ここまで出向いて来るくらいなら、何を苦しんで、がんりき[#「がんりき」に傍点]をああまでかついだのか、はなはだ解《げ》せないことです。
いずれにしても、不破氏は、この席へ入ると同時に、平身低頭して、出入り御贔屓《ごひいき》の骨董屋たる腰の低いところを充分に表現いたしました。
主人側の三人の会釈《えしゃく》を見ても、これは尊王憂国の志士の変形として受取っていない。ここまで引見の特権を与えた過分の町人としての待遇に過ぎないところを見ると、それで安心した。不破氏は大伴の黒主ではない。
「骨董屋、手順はどうだ、首尾よく進行しているか」
岩倉三位からお言葉が下ると、不破氏は、頓首膝行《とんしゅしっこう》の形をもう一つ低くして、
「は、御意にござります、万事お申しつけ通りに、極めて内々《ないない》に取計らい仕りました、今日、現品を御持参と存じましたけれども、慎重の上にも慎重と存じまして、お見本だけ、これへ持参仕りました」
「では、これへ出して見せ給え」
「はい――」
また後ろを顧みて膝行頓首をして、次の間に置据えた風呂敷を抱えて、また膝行頓首して、これを恭《うやうや》しく岩倉三位の前にさし置き、恐る恐る、結び目を解きにかかりました。
岩倉も、大久保も、品川も、共にその風呂敷の中を無言で見入っている。
風呂敷を解くと、中から出たものは、さのみ意外なものではありません。ただ、眼もきらびやかな大和錦《やまとにしき》、それから紅白の緞子《どんす》。一巻ずつそれを御丁寧に取揃《とりそろ》えて、いよいよ恭しく三位の前に推《お》し進めると、三位は座右から、あらかじめ備えられた一つの彩色図を出して、大久保に示し、
「玉松《たままつ》が作ってくれたこれが図面じゃ、よく引合わせ御覧になるがよろしい、寸法、式、模様、色合、誤りがあらば申し附けて訂正させるように」
そこで、大久保は大和錦を取り上げて、二三尺ずつ引きほごしては、下なる彩色の図面と見比べる。そこへ品川弥二郎が首を突き出して、大久保の調べのあとを追うて仔細に吟味をして見る。
不破氏は最初の姿勢で、ほとんど膝行頓首の体制のままですから、いま大久保が大和錦と引合わせている彩色の図面が何物だかわかりません。わかろうとすることが重大なる失礼ででもあるかのように、恐れ慎んで面を上げないのでありますが、品川弥二郎は甚《はなは》だ無遠慮で、果ては彩色の絵図面を横手に持って、大久保の繰りひろげた大和錦を片手で引張って、押しつけるようにして較《くら》べて見るものですから、側面から見ると、その彩色の絵図面が何物であるかがよくわかるのであります。
つまり、それは錦の御旗《みはた》を描いたもので、大和錦はこの御旗の地模様をつくり、ただ、図面と異なるのは、それに金銀の日月が打ってあるのと、ないのとの差であります。
「いや、これでよろしい、寸分相違がない、見事な出来でござります」
と大久保が保証すると、品川も頷《うなず》く。三位も満足の体《てい》。その時に大久保が改めて、
「では商人、この方式によってしかるべく頼むぞ、恐れ多き事ゆえに他言は固く無用、万一、外間に洩《も》るる時は、その方の命はなきものと覚悟せよ。この絵図面もその方を信じて手渡す、これによって、日月章の錦旗|四旒《しりゅう》、菊花章の紅白の旗おのおの十旒を製して薩州屋敷に納めるよう――世間へは、薩州家の重役が国への土産《みやげ》の女帯地を求めるのだと申して置け」
「委細、心得ました、必ずともに御信用に反《そむ》きませぬ、万一、手ぬかりを生じましたその節は、この痩首はなきものと、疾《と》うに覚悟をきめておりまする」
「町人にしては惜しい度胸、昔の天野屋に優るとも劣らず、では、しかと申しつけたぞ」
「有難き仕合せにござりまする」
ここで、不破の関守氏はまたも頓首膝行の形で、三傑の御前を辞して、次の間に辷《すべ》り出て、三太夫にまで鞠躬如《きっきゅうじょ》としてまかりさがってしまいました。
五十八
不破氏が、ここまで食い入って、ここまで信用を掴《つか》み得たという手腕のほどは甚《はなは》だ驚歎すべきことでありますが、ここに於て、東西に二つの錦旗の問題が隠見して来たことは、この小説の作意ではありません。
すなわち、上野の東叡山輪王寺御所蔵の錦旗を盗まんとする不逞《ふてい》の徒が存在するらしいことと、ここでは岩倉三位合意の下に、玉松操《たままつみ
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