われます。
 岩倉三位は鍬を杖にしたままで、まだ庭先に立っている。

         五十六

「天下の風雲をよそにして、菊を南山《なんざん》に採《と》るという趣があります、お羨《うらや》ましい境涯です」
と大久保が、岩倉三位の手ずから丹精の小庭と、その手にせる鍬を見て、こう言ってお世辞を申しますと、岩倉が、
「必ずしも左様な風流沙汰ではないよ、この鍬で、今その風雲のとばしりを少しばかり鎮《しず》めたところだ、あの小山を見給え」
と指しますから、庭の一隅を二人が見ると、そこにまだ土の香の新しい土饅頭《どまんじゅう》が一つ築かれてあるのであります。
「何ぞお囲いになりましたか」
「たった今、ここの玄関へ怪しげな壮士|体《てい》の者共が押しかけて、わしに献上と言って、玄関へ何か置きはなして行った、取調べてみると、人間の片腕が一本、まだ生々しいのが、三宝に載せて置いてある、不潔千万だから、今、それをここのところへ埋めたばっかりだ」
「何ですか、人間の片腕を三位のお玄関へ、それは物騒な奴があったものです」
「生首でなくてまだ幸い――ここへ埋めて念仏をしてやったところだ」
「何者の生腕《なまうで》でございますか」
「千種家《ちぐさけ》の賀川肇の生腕と、三宝の下に書いてあった」
「賀川の――ともかく、時勢とは言いながら、この山里の御閑居へまで、そういうことをする奴があるのだからなあ」
 大久保も感慨に耽《ふけ》ったが、品川の弥二が、ここで、また改めて岩倉三位の横顔をじっと見つめました。
 かくて二人は岩倉三位の案内を受けて、その居間に通されるのでありますが、品川弥二郎は、大久保と岩倉の後ろ影を見ながら大いに考えさせられているようです。
 やがて三人、奥の居間で密談となりました。まず、大久保から岩倉への品川の紹介があったことでしょう。それから、長州の人傑の近況が一くさり噂《うわさ》に上ったことでしょう。やがて順序を得て、今日の来訪の理由の眼目に進んで密談が酣《たけな》わになるほど、外間の窺知《きち》を許さないものがある。
 三人の対話は極めてひそかに、また長時間に亘《わた》って、容易に果つるとは思われません。洛北岩倉の秋日の昼は、閑の閑たるものであります。
 この小閑を利用して、少しく時代の知識の註釈のために、慶応三年という年に、この篇に関係ある当時の相当の人物のめぼしいところの年齢調べを行ってみたいのでありますが、順序の不同と、一両歳の出入りは御免|蒙《こうむ》って、次に少々列挙してみますと、
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勝安房    四十四歳
大村益次郎  四十五歳
岩倉具視   四十二歳
西郷隆盛   三十九歳
大久保利通  三十七歳
木戸孝允   三十三歳
三条実美   三十歳
高杉晋作   二十九歳
伊藤俊輔   二十六歳
品川弥二郎  二十五歳
坂本竜馬   三十三歳
山内容堂   四十歳
徳川慶喜   三十歳
島津久光   五十歳
毛利元徳   二十八歳
鍋島閑叟   五十四歳
小栗上野   四十一歳
近藤勇    三十四歳
土方歳三   三十三歳
松平容保   三十二歳
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等々。

         五十七

 こうして、三傑が額を鳩《あつ》めて密談いよよ酣《たけな》わにして、いつ果つべしとも見えない時分、次の間から、恐る恐る三太夫の声として、
「申し上げます、只今、山科の骨董商《こっとうしょう》が参上仕りましたが、いかが取計らいましょうや」
「ははあ、来たそうだ、これへ通せ」
 岩倉も、大久保も、諒解して、いま来訪して来たという山科の骨董商なるものを、この密談の席へ入れるらしい。してみると、その骨董商なるものも、只者ではないことがわかります。只者であった日には、この密談の席へ通されるはずはないと思われるが、しかし、事実はかえって天下の志士でなく、郊外の骨董商であるから許されるのかも知れない。この時分、もはや密談は終って、おのおの好むところの書画骨董の余談にうつり、その潮時に出入りの骨董屋が来たというので、無雑作《むぞうさ》にお目通りを許されたものとも見える。まもなく、三太夫に導かれてこの席へ姿を現わした山科の骨董屋なるものを見ると、これが意外にも光仙林の不破の関守氏であろうとは……
 不破の関守氏というのは、前身が相当の曲者であってみると、さては、お銀様を説き立てて、名画名蹟の蒐集ぐらいでは芝居が仕足りない。洛北岩倉村へ集まる、この辺の役者を板にかけて、脚本の製作をたくらんでいるとすれば、こいつも大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》に近いが、果して、さほどの大望を抱いて来たのか、或いは、山科の骨董商になりきって、このお邸《やしき》のお出入り商人たるを以て甘んじて御用伺いに来たものか、その辺はわからない。
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