宵の間にほどよく敷いて置いた夜具の中に、誰かが寝ている。
 枕許には大小が置いて、その上に黒い頭巾が投げ出してある。そこで若い老尼は全く立ちすくみました。もう、あっという言葉も出ません。
 ところが、この奇怪きわまる侵入者は、苦しそうな声を出して、
「御免下さい、あんまり疲れましたから、それに恥かしながら飢えに堪え兼ねて……」
と言いました。
「え、何でございますか」
 無意識に若い老尼が言葉を返しますと、
「お腹がすいたのです」
 こいつ、あの餓鬼草紙の二の舞をやっている。餓鬼草紙から脱け出した老婆は、大釜を背負い込んでいたが、この餓鬼は釜の代りに大小を持っている。
「それは、お困りでございましょうがなあ」
「疲れはしたし、お腹はすいたし」
 どうも、さもしい。お腹がすいた、お腹がすいたと、あまり繰返さないがよろしい。武士は食わねど高楊枝とも言い、腹がへってもひもじうないと言う。それだのに……
 この物騒な侵入者は、物騒なわりに気が弱過ぎる。
 作り声ではない、ほんとうに疲れきってもいるし、飢えきってもいるし、或いは疲労以上の、飢餓以上の、瀕死《ひんし》の境にいるのではないかとさえ見られるのですから、老尼にも一点、憐憫《れんびん》の心が起ってみると、恐怖心の大半が逃げました。その逃げたあとへ、若干の勇気というものが取戻されたものですから、やや本心にも返ったし、本来、こうして、この年で、水気《みずけ》たっぷりな侘住居《わびずまい》をしているくらいですから、心臓の方も、さのみ老いてはいなかったのでしょう。
「それはお気の毒な、まあ、ちょっとお起きあそばせ、おぶ漬を一つ差上げましょう、何ぞ粗末な有合せで」
「そうですか、それはかたじけないです、では、御免を蒙って」
と、寝ていた弱気の侵入者は起き直りましたが、ほんとうにこれはこの世の人ではない、病みほうけ、疲れきって、その様、全く哀れげに見えるものですから、老尼はいよいよ気になりました。
 侵入者は、起き直ったとはいうものの、立って挨拶をしようではありません。蒲団《ふとん》の上に突伏《つっぷ》すように坐り込んだなりで、物を考えているよりは、哀れみを乞うているに似たこの姿がいじらしい。
 侵入者をいじらしがるわけもないものだが、老尼は、もうこっちのものだと思いました。傷ついた虎は吠える犬にもかなわない、という見極めがすっかりつきました。

         六十四

 それからしばらく、侵入者は、さっぱりとした取合せのよいお膳について、箸《はし》を与えられました。その傍らにお給仕役をつとめながらの若い老尼が、あやなすように話しかける。
「あなたは、どちらからおいでになりましたの」
「関の大谷風呂に暫く逗留しておりました」
「お国はドチラですの」
「東国の方ですがね、諸所方々をフラつきましたよ」
「お目がお悪い御様子ですが」
「はい、目がつぶれてしまいましてね、つまり天罰というやつなんですよ」
「どうして、そういう目におあいになりましたの」
「十津川の騒動の時にやられました」
「ああ、あの天誅組《てんちゅうぐみ》の騒動に、あなたもお出になりましたか」
「はい、十津川では天誅組の方へ加わりました、中山卿だの、それから松本奎堂《まつもとけいどう》、藤本鉄石なんていう方へ加わりました」
「まあ、それは頼もしい、天朝方でございますね」
「なあに、頼もしく入ったんじゃありませんよ、頼まれたもんですからツイね、つまり、人生意気に感ずというわけなんでしょう」
「その前は、どちらに」
「その前は壬生《みぶ》におりました」
「まあ、壬生浪《みぶろう》……」
「恐れるには当りませんよ、これもふとした縁でしてね、好んで新撰組に加わったわけじゃありません」
「では、あなたはずいぶん、お手が利《き》いていらっしゃるのね」
「剣術が少し出来るんでね、まあ、それで身を持崩したようなものです」
「よくまあ、でも、その御不自由なお身体《からだ》でねえ」
「こんな不自由な身で生きているというのが不思議なんです、いいや、不思議なんて、そんな洒落《しゃれ》たことではないです、恥さらしなんです、業さらしなんです、まあ普通の良心を持っている奴なら、とっくに、どうかしてるんですがね、こんな奴は、天がなかなか殺さないんです、つまり、なぶり殺しなんですね、あっさりと殺してしまうには、あんまり罪が深い」
「そんなことはありませんよ、自暴《やけ》におなりになってはいけません、あなたなんぞは、お若いに、これからが花ですよ」
「ふーん、これから花が咲くかなあ」
「咲かなくって、あなた、どうするもんですか、わたしなんぞごらんなさい、ことし、幾つだと思召《おぼしめ》す」
「左様、女の年というものは、若く言って叱られる、老《ふ》けて言うと恨まれる、
前へ 次へ
全97ページ中75ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング