、荒れ方の早いものはない。人間の家には、人間が住むべきものだということを、兵馬は繰返してつくづくと感じました。
さて一応見めぐり見きわめてみると、もう夕日が湖上の彼方《かなた》、比良、比叡の方と覚しきに落ちている。さて、今宵、兵馬は思いきって、この境内の内の一棟へ参入して、そこに宿を求めようとしました。そうしてこの幾棟かの家屋のうちの、最大の、最良の、御殿屋敷風なのを選んで、戸を排してみると厳しく釘づけになっているが、それを合点《がてん》の上で兵馬は、無理に押破って、御殿の中へ参入しました。
相馬の古御所――といったような気分です。御簾《みす》がかかっており、蜘蛛《くも》の巣が張られてあり、畳は、ちゃんと高麗縁《こうらいべり》がしきつめたままだが、はや一種の廃気が湧いて、このまま置けばフケてしまう。
兵馬はこの御殿の最も奥の間へ参入して、旅の荷物をそこに打ちおろし、その中から小提灯《こぢょうちん》、火打よろしく取り出して、早くも提灯に火を入れて、それをかざして間毎間毎を調べてみました。
調度を取払ったというだけで、畳建具は依然として人の住める時のそのままで、取残された形跡は一つもありません。それに戸棚という戸棚、押入という押入のたぐい、いずれをも押してみても、がっちり錠《じょう》が下りている、そうでなければ釘附けです。
そこで、兵馬が思うには、これは必ずしも解散とは言えないわい。いずれ家主は、そのうちここへ来て住むつもりか、そうでなければ出直して引取りに来るつもりなのだ。戸棚という戸棚、押入という押入が、この通りがっちりしているのは、いずれこの中が何物かで充実している証拠なのだ。してみると、これは空家とはいえない。人がいないだけで、まだ完全に住宅権が存在している。そこへ無断侵入を試みた自分というものは、家宅侵入の罪に問われる資格は充分ある。しかし、この場合、そういう遠慮は無用である。よろしく、覚悟の前、この戸棚のうちの一つ、最もめぼしいようなのを一つ押破ってみてやろうではないか。一つでたんのうできなければ、全部をいちいち破壊してみてやろうではないか。さし当り、今晩これに旅籠《はたご》を取るからには、夜の物が欲しい、なければないで済ませるが、すでにこの通り多数の物入があって、それをそのまま死蔵せしめて置くは、宝の山に手を空しうするも同じこと。誰を憚《はばか》る、要らぬ遠慮――
と兵馬は決心して、その戸棚の中のめぼしい一つを、力を極めて押破ってみました。
別に一ツ目小僧も出ては来なかった、これは確かに夜のもの、夜具《やぐ》蒲団《ふとん》の一団と認定のできた大包み、それを引出して解いて見ると、果してその通り、絹紬《きぬつむぎ》のまだ新しい夜具が現われる。
とこうして、兵馬はついに、その新しい夜具を豊富に打着て、就眠の人となりました。
働いているから眠りに落つることも早い。
四十五
肉体は疲れているから、眠りに落つることははやかったけれども、神《しん》は納まっていないから、睡眠が必ずしも安眠というわけにはゆかない。夜半、兵馬の胸を推《お》すものがある、うつつにながむれば、
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「無明道人俗名机竜之助之墓」
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それは湖畔の木標ではなく、まだ切立ての一基の石塔であります。一方を見ると、同じような石塔が比翼の形に並んで、それに、[#「それに、」は底本では「それに」]
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「同行淡雪未開信女之墓」
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とある。
この二つの石塔が、どことは知らぬ荒草離々たる裾野の中に、まだ石鑿《いしのみ》のあとあざやかに並んでいる。近づいて見ると、その後ろに墓守が二人、しきりに穴掘りをしている。傍らには布で巻いた二個の棺を据えて、しきりに墓穴を掘っている。それを覗《のぞ》き込もうとすると、墓と墓との間の丈なす尾花《おばな》苅萱《かるかや》の間から、一人の女性が現われて、その覆面の中から、凄い目をして、吃《きっ》と兵馬を睨《にら》みつけて、
「ここへ来てはいけません、あなた方の来るところではありません」
その睨む眼の険しいこと、兵馬は、たしかに胆吹山の女賊の張本に相違ないと思いました。
夢うつつは、その程度、それ以上、深刻にも精細にもなりませんでしたけれども、醒《さ》めた宇津木兵馬は、怖ろしいよりも、その暗示性の容易ならぬことに心が乱れました。
かくて、いったん、破れた夢が、またあけ方まで無事に結び直されましたが、日の光、鶏の声が戸の隙から洩《も》るるを見て、兵馬は立って、一枚の雨戸を繰ると、満山の雪と見たのは僻目《ひがめ》、白いというよりは痛いほどの月の光で、まだあけたのではありません。
それから、兵馬の頭に来た、何の拠《
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