ほかはござりませぬ。
 ただ、たった一つ――そのお方が世の常の女の方と違っておいでになったのは、入るから出るまで、昼も、夜も、しょっちゅう頭巾《ずきん》を被《かぶ》っておいでになりました。いついかなる場合にでも、あのお方が頭巾をお外しになったのをお見かけしたことがございません。でございますから、お面《かお》つきや、御縹緻《ごきりょう》のほどは少しもわからないのでございます――なに、しょっちゅう頭巾のかぶり通し――はてな、兵馬が気ぜわしいうちにも頭を捻《ひね》って、考えさせられたのは、誰と思い当ったわけではなく、その点に、右の女性の性格の重点があると感じたのでしょう。
 では、ひとつ、わしは少し心当りのことがあるから、明朝早速、胆吹へ上って、その女賊の大将にお目にかかって、お聞き申してみましょう。
 それはおよしあそばせ、ちょっと見ては、左様なおしとやかなお方でございますけれども、その悪党は底が知れぬ。気に入らぬものはみんな縊《くび》り殺して、穴蔵《あなぐら》の底に投げ落してしまうのだそうでございます。現に、幾人かの人の屍《しかばね》が、胆吹の奥の山の洞穴の底に埋もれて、夜、青火が燃えさかるという話。構えてお近づきにならぬがよろしうござんす――何をばかな、今の世にそんなばかばかしいことがあるものか、ぜひ、ひとつ、明日はその胆吹の御殿をたずねてみにゃならん。
 お言葉ではございますが、よし、鬼などのことは嘘と致しまして、これから胆吹へおいでのことはお見合せになった方がよろしかろうと存じます。そのわけは、その女のお方は、もう胆吹にはおりませぬ、胆吹を飛んで、大江山の方へお出ましになってしまったそうでござります。
 なに、大江山へ――いよいよ話が大時代《おおじだい》になった。でも、鬼のいない胆吹へひとつ乗込んでみよう、その棲所《すみか》のあとを調べてみるだけでも無用ではない。
 こう覚悟をして、それから話題を改めて、浜屋のおかみさんに向ってこれから胆吹へ上る筋をくわしくたずねました。

         四十四

 主婦の諫《いさ》めを用いず宇津木兵馬は、その翌早朝に出立して胆吹へ上りました。
 長浜から僅かに三里、上りとはいえども、程度の知れた道、まもなく胆吹の麓について、よく聞きただした上平館《かみひらやかた》の一角を探し当てたのは容易《たやす》いことです。
 いたりついて見ると、案外にも門は閉されて、全く人の気配がありません。
 推《お》せど、叩けど、おとなえども、応と答えるこだまはなく、全く無人の境と思いましたから、兵馬は、身軽く塀《へい》を乗越えて、上平館の境内へと侵入してみましたけれど、誰とて咎《とが》めるものはありません。
 はて、この分で見ると、ここははや解散したあとだ。つい近頃までは人の出入りの相当繁かった気配は充分ですけれど、現在は全く引払って、さらに人跡をとどめていないことは、小径に生ずる草、立てこめる気分の荒涼さでもよくわかります。およそ人の住むべき家に、人の住まないほど、すさまじい光景はないものの一つです。本来、未開の地には未開の処女性があって、人の官能を潔《いさぎよ》くするものですけれども、一旦、人が住んで、そのまま住まずとなって打棄てられた光景ほど、うたた物の荒涼と悲哀とを漂わせるものはありません。
 その気分に打たれた宇津木兵馬は、ははあ、もうこの一味は解散したのだな、人は解散したけれども、家屋敷はもとのまま、足を踏み入れるに従って、あちらに一棟、こちらに幾軒というほどに、建築の生《なま》なのに較べて、宏壮な規模が徒《いたず》らに住み残されてしまっている。さながら大本教と、ひとのみちの廃殿の中に入るようなものです。これほどの結構をし、これほどの屋敷を構えながら、かくも無惨に住み捨てるというのは冥利《みょうり》を知らぬ業だ、逆らって入るものは逆って出でる道理、大きく言えば、城春にして草青む、といったすさまじさが兵馬の胸を打つ。とにも、かくにも、行き尽すところまで侵入を企てよう、もし、その中に人臭いにおいでもあれば見つけ物、引っとらえて物を言わせてみようと、右に左に足を踏み入れたが、いよいよ深く行くにつれて、いよいよ荒涼なものです。絶対無人の境だということを確認しました。
 浜屋の若いお内儀《かみ》さんは、胆吹の女大将の話をして、まだこの館に一味が留まっているということを保証し、決して退却したとも、解散したとも言わなかったが、案外に来て見ればこの始末。
 してみると、あのお内儀さんは、一味が解散したことをまだ知らないのだ。あの辺の人まで伝達されないうちに散じてしまったとすれば、それはかなり最近でなければならぬのに、この荒れ方は、太古の昔のような面影がある。
 ほんとうに、人間の住むべき家に人間の住まないほど
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