らないのですか――今日まで、後日物語はありませんか」
「全くお聞き申しませぬ、あれっきり浮いて来ないのでございましょう、まあ、いっそ、心中でもしようというには、その方がよろしうござんすな、なまじい浮き上って来ない方が、功徳でございます――」
「では、この供養塔と卒都婆《そとば》、これは誰がしたのですか、縁もゆかりもない人がしたとしては、いささか念が入り過ぎている」
「それは、胆吹山《いぶきやま》の上平館《かみひらやかた》の女王様とやらの、なされた法事でございます」
「胆吹山の女王――」
 兵馬は、それからそれと、眼がまわり舌がもつれるほどの思いですが、臨湖の老人は、おだやかに、
「くわしいことは、浜屋へ行ってお聞きなさいませ、あそこのお内儀《かみ》さんが、委細を御存じのはずでございます」
「浜屋というのは、二人の泊った旅籠屋《はたごや》ですか」
「左様でございます、あの通りを上へ真直ぐに廻り、少し左へ鍵の手に折れますと、太閤様時代に加藤屋敷といわれた広い地面で、二階壁には蛇《じゃ》の目《め》の紋が打ってありますから直ぐにわかります、そこの若いお内儀さんが、委細を御存じのはずで――」

         四十三

 浜屋へ投宿して、一室に通された宇津木兵馬。その一室が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が小指を落された一室であるということは知りません。
 少し、土地柄のことについてお聞き致したいことがあるが、御亭主にお目にかかりたいと申し入れると、亭主でなく、若いおかみさんが御挨拶に来ました。
 湖岸の供養塔のことを話題としての宇津木兵馬の質問に答える、若いおかみさんの返答は、親切にして且つ詳細なものでありました。第十一の巻に現われた通りを裏から見たおかみさんの返答であります。その見るところに見足りないところはあっても、その答えるところに駈引はありません。兵馬にはいちいち納得のゆくことばかりであります。
 そうして、お内儀さんの最後の断案も、浜辺の老漁師の下したと同じことで――
 今様お半長右衛門のような二人の心中は、完全に遂げられて、その亡骸《なきがら》は絶対に浮んで来ないことを信じている。けれども、その善後策に就いては、まだ人の知らない新しい事実を教えてくれました。
 それは、二人が完全に、湖中に入水《じゅすい》を遂げたと知ったその日に、二人の供養があの臨湖の湖畔で営まれたこと、そうして、この供養の施主《せしゅ》というのが、疑問の一人の女性であったということです。
 兵馬は、それを訝《いぶか》しいことにも思い、また、なるほどと合点することにも思いました。というのは、湖畔で拾った卒都婆の文字が、たしかに女文字と睨《にら》んだからであります。その点は符合するが、そんならば、何の縁あって、右の女人が出しゃばって、この二人の亡霊の供養をしなければならないか、その女性は何者か、心当りはないか、という押しての疑問に答える浜屋のおかみさんの返答は、極めて要領を得て、そうしてまた要領を得ないものでありました。
 その女の方は、やはり、手前共に暫く御逗留《ごとうりゅう》をなさいました。胆吹山からおいでになりましたそうでございます。なおよく承りますると、胆吹の山に住む女豪傑の大将だそうでございます。
 なに、女豪傑の大将――それは、けったいなことだわい、してまた、その女豪傑の大将が、何の縁あって、男女二人の心中の供養をしなければならないのか、その因縁については、お内儀《かみ》さんの返事は漠として夢を掴《つか》むようで、ほとんど要領を得られません。
 だが、噂《うわさ》に聞くと、その女豪傑の大将はステキな女丈夫で、むろん女豪傑といわれるのだから、女丈夫の一人には相違あるまいが、多くの手下をつれて胆吹山に籠《こも》っていたが、この心中の二人も、その胆吹山の山寨《さんさい》に居候をしていたのだそうです。そういう縁故から出向いて来て、あの供養をして上げましたのだそうです。
 なるほど、何か胆吹にからむ因縁があるのだな。して、その女豪傑の大将といわれる婦人の方を、あなたは見ましたか。ええ、ようこそそれをお尋ねになりました、どのような風采《ふうさい》を致しておりましたか、はい、ちょっと一目うかがっただけでは、世の常の女の方に少しも違ったところはございません、せいはすらりとして、品のよい大家のお嬢様、そうでなければ若奥様といったようなお方で、芝居で致しまする鬼神のお松のような、金糸銀糸の縫取を着た女賊のようにはさらさら思われません。あれで女豪傑の大将で、たくさんの手下を自由自在に扱い、このほど起りました百姓一揆《ひゃくしょういっき》の大勢ですらが怖れて近よらなかったと申します、そんな威勢はドコにも見えませんでした。全く人は見かけによらぬものと申し上げるより
前へ 次へ
全97ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング