《むほん》を企てる、もうこの上は長追いは無益である、あのやくざがこの界隈に出没しているということを基調として調べてみれば、存外、獲物があるかもしれない、そう思ったものですから、兵馬は臨湖の岸まで来て、急がず、湖上遥かに見渡して、その風景に見恍《みと》れて彳《たたず》んだが、それからおもむろに湖畔を逍遥の体で歩んで行くと、ふと岸の一角に、まだ新しい木柱の一つ立つのを認めました。
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「為有縁無縁衆生施餓鬼供養塔」
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 墨色もまだあざやかに、立てたのは昨日今日の特志家の善業であること申すまでもありません。
 その大きな供養塔の木柱が立っている、その下の、波の寄せては返す岸辺を見ると、そこに雛卒都婆《ひなそとば》が流れている、その卒都婆もまだ新しい。波になぶられて、行きもならず、戻りもならずに漂うている、その墨の文字さえが、供養塔の文字とほぼ同時同筆を以て書かれたように、あざやかに読めるものですから、兵馬がそれを見やると、
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「無明道人俗名机竜之助帰元」
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と書いてあるので、蛇を踏んだようにハネ返ってその卒都婆を拾い上げました。
 見事な筆蹟である上に、これはまさしく女の手筆《しゅひつ》だと見ないわけにはゆきません。しかも、その女の手筆というものが、たしかにどこぞで見たことのある筆蹟のように思われてならないのですが、その筆先しらべはあとのこと、「無明道人俗名机竜之助」の文字が兵馬の腹にグザと突込みました。
 誰がこういうことをした、眼のあやまちではないかと、篤《とく》と見直したけれども、そのほかのなんらの文字でもない。
 兵馬は、これを取り上げると、もう一つ、それと上になり下になって漂うていたもう一つの同形のものを取り上げて読むと、
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「淡雪信女亡霊供養」
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と、同じ手筆で、同じ筆格に認《したた》められてある。
 この二つが供養塔の下に並んで、波に戯れているのは、謎とは思われない。何人か心あってしたこと、心なくてはできない手向《たむ》け草《ぐさ》、念が入り過ぎている。ことに人力ではなく、運命の悪戯《いたずら》というものがからまって、この波が今も二つをなぶるように、二つの魂がなぶられている。それをまた後の、いたずらの心から、さる人によって、この供養が営まれた。いずれをいずれにしても、倒逆の葛藤《かっとう》を免るることはできません。
 だが、ここにこれがある以上――もはや、戯れの底も見えた、と兵馬は小躍《こおど》りしつつ、汀《みぎわ》の砂地を踏み締めて、人やあるとあたりを見渡すと、漁師の老人が一人、櫂《かい》を手にして、とぼとぼと歩んで来る、それをこの柱の下で待受けて問を発しました。
「その供養塔は誰が立てたのですか、何のために、何という人がこれを、いつの日ころにたてたものですかね」
「はい、それはなあ、ついこの間で、こちらから舟を乗り出して、この湖の真中のどこかで、情死《しんじゅう》を遂げた男と女がござりましてな、男の方は三十幾つかの年配、女子《おなご》の方はまだ十七八でござんしょうかな、月夜の晩に、お月見だといって、浜屋の裏堀から舟を乗り出しましてな、この湖の中で、どんぶりと情死を遂げてしまいましたとかでござんす、舟だけが浮び流れ流れて、こっちの岸につきましたが、中には主がござりませぬ、遺書《かきおき》のようなものもござりませなんだ。舟が漂いついたので、こっちではじめて騒ぎまして、いろいろたずねてみましたが、さっぱり当りがつきません、なんしろ竹生島の方に参りますると、金輪際まで突通しの水の深さ、周囲を申しますと日本一の大湖でございますから、手のつけようもございませんでしたが、二人はとうに腹を合わせて心中の覚悟が出来ていたんでございますな、毛氈《もうせん》も、お重《じゅう》も、酒器も、盤も、宿からの品は一品も失いません、二人の身体だけが、水に沈んでしまいましたげな。お歳が少し違い過ぎて、男の方が上過ぎたのに、女子がまだ娘ざかりでございました、かわいそうに、そそのかされたわけではござんすまい、心を一つにした相対死《あいたいじに》に相違ござんすまいが、今様お半長右衛門だなんて、悪口を言っていたものがありました。ですが男の方は町人ではございません、苦《にが》み走《ばし》った、芝居ですると定九郎といったような人相で、あれよりずっと痩《や》せた人柄、病み上りのように蒼白《あおじろ》い、なんでも人の言うところによると、眼が不自由であったと申しますが、どんなものでござんすか」
 そこまで聞けば、もう充分以上のものではあるが、兵馬は、ただただ不安で、聞き済ましてはいられない。
「そうして、この二人は、それっきり浮き上
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