いた、その寺があいているから、そこへ入って坊主になれというのではない、閑居の体《てい》にしていて、気が向いたら、京都なり、大阪なり、好きなところへ泳ぎ出して、好きなように遊んでよろしい、出仕の場所の指図は受けないし、時間というのも制限がない、およそ、この神尾の勤め口としては絶好だろう、今もちょっと口に出たが、板倉周防の仕事をしろというのではない、柳生但馬とか、石川丈山とか――あれの仕事を当世で行くんだ。石川丈山と言えば、お前は名を聞いていないかも知れないが、戦場の行賞の不平をたねに、知行を抛《なげう》って京都の詩仙堂というのへ隠れたのは表面の口実、実は徳川のために、京都の隠目附《かくしめつけ》をつとめていたのだ。おれは但馬守ほどに剣術は使えないし、丈山ほどに漢詩をひねくる力はないが、遊ぶ方にかけちゃあ、ドコへ行ってもヒケは取るまい、近頃は、遊ぶに軍費というやつが涸渇《こかつ》しているから、遊びらしい遊びは出来ないが、今度のはれっきとした兵糧方がついている、なんと面白かりそうではないか――行って落着く住居までが、もう出来ているのだ、身一つではない、身二つを持って行きさえすれば、ここの生活が、直ちにそこへ移せるのじゃ、その上に、昔のようには及びもないが、再び神尾は神尾としての体面が保てる、お前にも苦労はさせないだけの保証があるのだ、異人館の方に未練もあるだろうが、京都での一苦労も古風でたんのうの味はあるに相違ない、同意ならば、善は急げということにしようじゃないか。
 その晩のうちに、二人の腹がきまってしまいました。お絹としては、まだ見ぬ花の都を見飽きるほど見て帰れるし、それは、れっきとした後ろだてがあって、体面が保てて、生活が安定するのだから、ほんとうにこの辺で納まるのが何よりという里心にもなったのでしょう。
 こっちに未練といえば、ずいぶん未練もあるし、異人館の方だって、大味もこれから出て来ない限りもないが、それも、本当を言えば、こんな生活から逃《のが》れて、老後が食って行けるように何かのみいりが欲しいから、引眉毛で出てみたようなもので、そんな仕事をせずとも、安心して暮せるようになりさえすれば、もうこの辺で年貢の納め時、と言ったような満たされた心があるものですから、お絹は一切の未練や、たくらみも、かなぐり捨てて、無条件で神尾に捧げてしまおうというのです。もう、これからは浮気もすっかり納めて、いちずにこの若主人を守り通そうという心が、昨夜あたりからこっそり水も漏《もら》さない仕組みになりきってしまっているのです。
 そこで神尾主膳主従は、京都行きの腹を固めて、今までにない新しい勇気に酔わされて、心地よい一夜を明かしたというものです。
 翌日になると、そのお受けのためにと言って、神尾が悠々として出かけました。
 お絹は、身だしなみをする、取片附けをする、それが直ちに出立の身ごしらえ、荷ごしらえにもなるので、お嫁入でもするような若々しい気分に浮かされて、障子にはゆる[#「はゆる」に傍点]小春日和、庭にかおる木犀《もくせい》の花の香までが、この思いがけない鹿島立ちを、やいのやいのとことほぐかのようににおいます。

         四十二

 宇津木兵馬は北国街道を下って、越前と近江の境を越えるまでは何事もなかったけれども、長浜へ来ると、ふと、路傍で思いがけないものを見つけました。
 それは、長浜の市中を横に走るところの、素敵に足の早い旅人を、遠目に見かけると、それが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百という見知越しのやくざでない限り、ああいう気取り方と、ああいった走り道具を持ったものはないということでありました。
 果して、あいつが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百である限り、あいつの通過するところに、草の生えたためしがない。転んでもただでは起きて行かない奴である。本街道を外れて、わざわざ長浜の町を突切るくらいだから、何かこの土地にからまるべき因縁があるに相違ないと感づいたのです。
 そこで、逸早《いちはや》く彼を取っつかまえて、泥を吐かせようと、かけ出してみたのですが、足に物を言わせることにかけては、こいつに敵《かな》いっこはない。見る間に、その後ろ影を町並の角に見失ってしまいました。兵馬は歯がみをしたけれど追っ附きません。空しくその走りくらましたあとについて急いでみると、琵琶の湖畔に出てしまいました。いわゆる臨湖の渡しであります。そこまで来た上は、この先はもう、湖であります。左へそれたか、右へ走ったか、そのことはわからないが、あいつの目ざすところが、北でも、東でもなく、西に向っていることに於て、当然、彦根、大津、京都の本街道を飛んで行くものに相違ないと思いました。
 そうでなければ、この地にとどまって、何か、あいつ相当の謀叛
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