よ》るところとてはないけれど、ひしひしと迫る暗示は……
机竜之助はもう死んでいるのではないか、死んでいるとすれば、確かに殺されて、この世に亡き人の数に入っている、彼を殺した人は何者、それは右の覆面の女賊のほかのものでありようはずはない、少なくともこの胆吹山まで来て、ここで竜之助は殺されてしまっているのだ。
という暗示が兵馬の胸に食い入りました。湖中で心中というのは嘘だ、こしらえごとだ、でなければその女賊が、なんでわざわざ、まだ死骸も、水の物か陸の物かわからない先に、先走って供養塔などを立てるものか、それは世を欺く手管だ、本来は、竜之助はここで殺されている、その死を装わんがためにわざと湖上で死んだようにもてなしているのは、女賊の張本の芝居である。
机竜之助は、すでに殺されているのだ、胆吹の山の女賊の手にかかって亡き人の数に入っている、それに相違ない、そう思われてならない、そうだとすれば哀れな話だ、彼に憐れみを加える余地は微塵《みじん》もないが、あれがこんなところで、女の手にかかって一命を果す、それも無惨や縊《くび》り殺された、なぶりものになって縊り殺されたとは何という悲惨な、そうして、何という醜態だ。
そうだ、してみると、これより後の自分は、彼の亡骸《なきがら》をたずねて歩くより道がない。
兵馬は、どうも、こんな暗示が胸いっぱいになって、竜之助ははや完全にこの世の人ではない、今後存在するとすれば、それは亡骸であり、亡霊である、これから自分の魂がそれを追いかけて歩くだけのものだ、力が抜けた、張合いが抜けた、というような気分で、兵馬の心が底知れず滅入《めい》って行くのであります。
そうなると、夜が明けるや、一刻もここに留まっている気がなくなって、長浜まで一気に走り帰って、例の蛇《じゃ》の目《め》の浜屋へつくと、若いお内儀《かみ》さんが、なつかしそうな色を面にたたえて、よくまあ戻ってくれたという好意に溢《あふ》れて迎えてくれて、前夜と同じ部屋へ案内を受けました。
「いや、胆吹の女傑のあとをたずねて見ましたが、館《やかた》はあるが、人がいませんでした、人っ子ひとりおりませんでしたよ、解散したのでしょう。解散したとすれば、あの一味はドコへ行ったものでしょうか」
「多分、大江山でしょうと思いますが」
またしても大時代――胆吹山でなければ大江山、兵馬はこれにも、げんなりせざるを得ません。
さりとて、これから突留めなければならぬのは、机竜之助の身柄よりも、むしろ問題の女賊そのものの身性《みじょう》である。これは物が物だけに、存外早く手がかりがつくだろう。大江山というは、この女性のロマンがかりで、もっと近いところに、別生活に入りつつある。そういうことが想像されるものですから、更にここでその手がかりを求めなければならぬ、けれども、この若いお内儀さんにこれ以上を求むるのは無理だ、ということをさとり、さて、翌日は結束して再び昨日の臨湖の汀《みぎわ》に来て見ると、昨日ありしところのかの木標はなく、卒都婆もありません。砂の上には供養塔を立てたその痕跡さえなく、汀の波には卒都婆を弄《もてあそ》ぶ波の群れのみ昨日に変りありません。
何者か抜き取って、木標は湖中に捨ててその行方《ゆくえ》を知らず、卒都婆は流れ流れて人の拾うものもなし。昨日まざまざと見た臨湖の景色が夢で、胆吹の夢に見たまぼろしに、かえって真実なりと欺かれる。兵馬はたよりなき感覚の幻滅を歎くことに堪えられない思いです。
四十六
机竜之助は胆吹の女王のために殺されたり、という宇津木兵馬の幻覚は、幻覚に似たる真実でないということはありません。
ある意味では、竜之助が、女王の手に殺されているのは胆吹に始まったことではない。
殺すということは、生命を奪うことで、生命を奪うということは、生命を亡くすることではないのです。単に生命の置きどころを変えたというにとどまるもので、かりに竜之助が暴女王の手にかかって殺されたりとすれば、それは女王が竜之助の生命を取って、自身の生命の中に置き換えたということの変名であって、竜之助そのものは、お銀様の中に生きている、お銀様は彼の肉体が無用になって、その生命の置場所になやんでいるのを見てとって、彼の生命を掴《つか》み取って、自分の体内に置き換えてやったという意味になるのですから、斯様《かよう》な殺し方は慈悲心の一種でさえある。形骸としての机竜之助が、柳は緑、花は紅の里を、いかなる形式でさまよい歩こうとも、それは夢遊病者の行動を、映し絵としてながめるだけのもので、彼の真の生命は、他のところに置き換えられて生きている。今後のお銀様は即ち竜之助であり、竜之助の更生が更にお銀様でないとは誰がいう。
今や、お銀様の存在は一つの恐怖です。この
前へ
次へ
全97ページ中55ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング