ように言いました、
「京都の朝廷に岩倉三位があるように、輪王寺の門跡に覚王院義観僧都がある、京都に於ける岩倉三位を向うに廻して、これと相撲の取れるのは、覚王院義観僧都あるのみだろう」
 これは意外な見立てと言わなければならぬ。会津とか、桑名とか、譜代の誰々、旗本に於て少なくとも小栗とか、勝というものが、口の端《は》に上らなければならない場合に、意外にも、一人の出家僧を以てこれに答えた鈴木安芸守も、山におればこそ、わが田に水を引くのではない、わが山に水を上せるものだ。今日の天下に、朝廷を擁し、大藩を向うに廻して、覚王院とやらの坊主一人で、どうして相撲が取れるものか、と言わば言うべきであるが、ここの人には、それほどの反感が無い、というのは、覚王院の威望が隠然として大きいのと、西の比叡《ひえい》に対する東の東叡山の存在が、ある意味に於ては、柳営以上の位にいるという頭があるからです。
 神尾主膳は、とにもかくにも、今日会わんとして会えなかった覚王院の義観なるものが、それほどの傑物であるかという印象の下に、更に鈴木に向って、ぜひ一度、その覚王院に面会したいから紹介してくれと頼みました。

         三十六

 そこまでは無事でしたが、その会談が七ツ下りの時分に、二三子のほかに、もう二人、新面《しんがお》の客がはせ加わったことが、神尾主膳にとって運の尽きでありました。
「これは、これは」
と言って、双方ともにテレたのは、こっちは神尾主膳だが、相手は土肥庄次郎であったからです。
「珍しや、神尾主膳殿、御壮健で」
「これは土肥庄次郎、その後はどうした」
 この男だけが、初対面でなかったのです。いずれは神尾に近づきのあるくらいだから、相当のシロモノではあろうけれども、昔の悪友という因縁ではない。実はこの男の祖父は、一橋の槍の指南役で、この男も祖父に就いて槍を学び、槍に就いての交りもある上に、その当時、悪友としてのよしみ[#「よしみ」に傍点]も浅からぬ方であった。
 土肥庄次郎の父を半蔵と言い、祖父を新十郎と言い、これは御旗奉行格大坪流の槍の指南役であった。その仕込みを受けて、あっぱれ免許皆伝の腕となり、槍を取っては、神尾のいい稽古相手であり、同時に悪所通いにかけても、負けず劣らずの腕を振《ふる》っていたものだが、土肥は遊ぶことに於ては、神尾に引けをとらないが、神尾ほどアクドイことはやらない、いわばお人好しの方であった。
 そのうちに土肥庄次郎は、長崎へ行くようになってから、二人の交りはパッタリと絶えて幾久しい間、ここでめぐり会ったというものだから、相当|入魂《じゅっこん》であるべきだが、実は土肥はその後の神尾をよく知らず、神尾もまたその後の土肥のことはあんまり知らずにいて、ここへ来たものだから、再会のようで、実は生面《せいめん》にひとしい。
 しかし、ともかく、蛇《じゃ》の道を心得た昔の悪友が来た日には、この帰りはただでは納まらない。土肥庄次郎と、もう一人のために、神尾は誘惑を受けて、まず広小路の松源へ引っぱり込まれ、そこで飲みはじめました。
 土肥庄次郎が同行の一人というのは、ずんぐりと肥った伝法な男で、これは大師堂五郎魔であります。庄次郎と五郎魔とは、後《おく》ればせに、ちょっと来て、主人鈴木安芸守を呼び出して、ちょっと耳打ちをしたかと思うと、立ち際の一座と共に、慌《あわただ》しく帰りましたから、勢い神尾と門前で挨拶をし合わなければならぬ、その機会が松源への誘惑となったのですが、それを辞退する神尾でなかったのは、相手が相手だからでしょう。
 松源の二階で、神尾主膳と、土肥庄次郎と、大師堂五郎魔とが、三人で飲み合いました。
 酒を飲み出すと、興にのって、土肥庄次郎らがこういうことを口走りました。これは極々の秘密事項だから、断じて口外はならんが、拙者と五郎魔が、今晩、鈴木重役へ相談に行ったのは、当時流行のスパイ一件のためであるということで、それはこのごろ、上方から間諜《かんちょう》がこの上野の境内へ入り込んでいる、ドコにどういう奴が幾人入り込んでいるか、そのことはわからないが、その目的だけは、はっきりわかっている、それは輪王寺宮御所蔵の錦の御旗を盗み出さんがためである、無論、盗まんがための盗みではなく、西国方の廻し者であって、宮のお手元に錦の御旗を置くことは、何かにとって危険極まりがないから、それを盗み取って、善処しなければならないという、そのたくらみの目的だけは、庄次郎が聞き込んでいる、それを警戒のために鈴木安芸守に耳打ちに来たのだが、今度、我々に於ても抜かりなく、そこへ眼をつけて、やはり、間者を取って押えなければならぬということです。
 これは土肥庄次郎の打明け話で、次は大師堂五郎魔の実験談――
 つい昨晩のこと、五郎魔が、お茶の水
前へ 次へ
全97ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング