の首縊松《くびくくりまつ》の下を通ると、若い奴が一人、今にもブラ下がろうとしているから、五郎魔が直ちに抱き留めた。
 ところが、その若い奴が、死なねばならぬわけがあるから、どうかこのまま死なせて下さいと、泣いて頼む故《ゆえ》、それほど死にたいとは、よくよくのことだろう、では、快く死ねと言って、縄を松の枝へかけてやって、そのまま塾へ帰って来たという。
 塾というのは伊庭《いば》の塾のことで、塾へ帰ると同門の岡野誠一郎をとっつかまえて、今、首くくりを助けて来てやった、とその由を語ると、正直な岡野が面の色を変えて、それは助けたんじゃない、殺したんだ、事情は何とあろうとも、生命《いのち》より大事なものは無い、そういうのは生かして助けなければならん、話の具合では、まだ息がありそうだ、行って見よう、二人で見届けに行こうと、岡野が焦《じ》れているものだから、おれも案内して、以前のところへ来て見ると、その若いのはブラ下がっている、もう駄目だ、息がたえている。
 誠一郎が、大息してなげいて言うには、この首縊松というやつが名代になっている、この松で今まで幾人首をくくったかわかりゃせぬ、いわば人殺しの松だ、憎い松だ、手は下さないけれども、人命を奪う奴、所詮この松があればこそ人が死にたがるのだ、ことにこの枝ぶりが気に食わぬ、こいつがにゅうとこっちの方へ出しゃばって、いかにも首をくくりいいように手招きをしていやがる、こいつが無ければ人は死ぬ気にならんのだ、怪しからん奴、憎い奴、と言って、岡野は君子人だが、その君子人が刀を抜いて、首くくり松の首くくり松たる所以《ゆえん》の、そのくくりよく出ている松の枝を切りかけたんだ。
 そこで、おれが、あわてて、これこれ岡野、松はういもの辛《つら》いものというから、松を憎がるのはいいが、その松は世間並みの松と違って、公儀御堀の松だぜ、一枝《いっし》を伐《き》らば一指《いっし》を切るというようなことになるぜ、めっそう重い処刑に会うんだぜ、それがいやだから、みんな松は憎いけれども、伐るのが怖い、よって今まで、こうして人命殺傷をほしいままにしつつのさばっているのだ、君にしてからが、めっそうなことをすると、前途有為の身体《からだ》に縄がかかるぜ、と言って聞かせると、岡野が、
「なあに、お咎《とが》めがあるならばあれ、いやしくも人命を奪う植物をそのままには差置けぬ、罪はおれが着るから、貴様も手伝え」
と言うから、よし来た! と刀を抜いて、枝をブチ切ってしまったよ。もう、首が括《くく》れない、あれへ来て死神に招かれる奴もあるまい、いい人助けをしてやったぜ。
 だが、岡野には感心したよ、おれが助けた奴を、またわざわざ助けに来る義心がエライ上に、あの君子人のくせに、刑罰を覚悟で悪魔払いをしようてんだから見上げたもんだ――五郎魔は五郎魔らしい身の上話をして、座興が湧いたから、第三次としてこれから吉原へ行こうと言い出したのを、無論、それを断わる神尾ではあるまいと見ていると、案外にも、今宵はこれで御免を蒙《こうむ》る、ほかに待っているのがあるからと言って、首を横に振ったのには、土肥庄次郎も、大師堂五郎魔も呆気《あっけ》に取られました。

         三十七

 ほかに待っているのがあると言って、吉原行きをことわって引返して来た根岸の侘住居《わびずまい》。
 これでは神尾もすでに老いたりだ、だが、他に待っている者があるとの口実が、いささか気がかりではある。
 いったい、誰が、この化物屋敷に神尾を待っている?
 待っていると言うたとて、ほかの者が待っているはずはない、先代ゆずりの、お絹という肌ざわりの相当練り上げられたのが、縮緬皺《ちりめんじわ》をのばして待っているくらいのもの。これが待っているからとて、附合いを外してまで戻ってやらねばならぬほどの、姉《ねえ》や思いの神尾ではないはずだ。姉やの方でもまた、一晩や二晩よりつかなかったからとて、おいたをしてはいけません、という程度のもの、きついお叱りがあろうはずはない。
 それでも神尾は、夜のおそきを厭《いと》わず、御行《おぎょう》の松の下屋敷へかえって来て、戸を叩くと、まだ寝ていなかったらしいお絹が、直ぐに戸をあけてくれたのを見ると、今日は、でかでかと大丸髷《おおまるまげ》のしどけない姿。毛唐の真似《まね》をして、束髪、女洋服ですましてみたかと思うと、もうがらり変って、おやじをあやなした時分の大時代の姿で納まり込んでいる。気まぐれな奴だと、神尾は横目で、じろじろと丸髷をながめながら通ると、お絹は自分の部屋で、ひとりギヤマンを研《みが》いていたらしい。
 幾つものギヤマンをそこへ並べて、その傍らには中形の壜《びん》がある。ちゃぶ台の上へそれを置いて、
「よくお帰りになりましたね」
「ああ、感心
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