これからの観察と、解釈とが、この一座のものとして聞くのと、巷《ちまた》で聞くのとは大きな相違がある。鈴木安芸守はこういうように言うのです、
「策動はしているが、結局はモノになるまい、蛤門《はまぐりもん》の失敗を、再三繰返すのみに過ぎまい、過激の壮士共や、変を好む浪人共と違い、朝廷におかれても、心ある堂上公卿は、内心みな徳川贔屓《とくがわびいき》じゃ、徳川家の悪いところは悪いで改めて行き、やっぱり三百年の重しのかかった勢いでないことには、この内外の多難は救われない、たとえ、建武の中興が成ったとしても、帰するところは、やはり武家の世だ、かりに、徳川家に代って、薩摩あたりが勢力を張ろうとしても、長州が許すまい、幕府がある間は薩長相提携もしようが、徳川退くならば彼等の間に当然の同志討ち、いずれの勢力も、徳川家の多年の威望には及ばない、とすれば、彼等の為すところは、朝廷を擁して、その御稜威の下に権柄をわが手に占めて行こうとする策略があるのみだが、そうなってみると、堂上公卿が得たりとばかり手を拱《きょう》してはいないのだ、位倒れで実力の無い公卿勢力を、左様に見くびってはならない、力は無くとも、歴史を持っている彼等の情実というものは、なかなか侮り難いものでな、武家の力だけでは如何とも致し難いものがある、そこで、四方八方の因縁がからみつくから、たとえ、徳川衰えたりといえども、一朝一夕で、天下の形勢が変るということはまずあるまい」
というのが、鈴木安芸守の結論らしい。
これは関東方としては、しかるべき見方であり、また事実その通りに信じているのであるけれども、以て、天下の輿論《よろん》の帰向とは言われまい。さりとて、神尾主膳にはそれに異議を試むるほどの見識が出来ていない、黙して聞いているよりほかはない。また、今晩は黙して意見を聞くためにここへ来たので、己《おの》れの所見を述べに来たのではない。そこで神尾は神妙に沈黙していたが、鈴木のこの大体観を中心にして、集まる二三子が、かなり思いきった反駁《はんばく》を試みたり、同意を表したりすることが、また大いに学問になりました。
しかし、この座では大体に於て、鈴木の意見に一致するので、それ以上に、徳川の余力を買いかぶって、薩長共の蠢動《しゅんどう》が結局、徒労に終ることを冷笑する空気が圧倒的でありましたが、最後に、最悪の場合を覚悟するとして、関西の勢力が朝廷を擁し、関東と相対峙《あいたいじ》するような形勢となると、輪王寺門跡のおわすこの上野の山が関東の王座となって、江戸城は、その衛城であること京都の二条城にひとしい。この意味から上野は守らなければならぬ、上野が関東の最後の、かつまた江戸での最上の本地となるのだという意見には、誰も異議はない。
それから、朝幕と、各藩各勢力の有する人物評判などに及んで、こういう時勢に於ては、おのおのその有する各藩の人物の如何《いかん》によって、興廃の運命が決するというものだ。ところで、鈴木安芸守が人物論について、次のような傾聴すべきことを言いました。
「京都に於て、公卿で第一に怖るべき人物はというと、それは岩倉三位だ、あれが容易ならぬ曲者で、薩長といえども、まかり間違えば、岩倉のために手玉に取られない限りもない、あれは睨《にら》みが利《き》く、薩長の何人といえども、岩倉三位に対してだけは、正面から押しの利く奴が無い」
と、きっぱり言いました。岩倉三位に対して、ともかくもこれだけの認識を持っているというのは、鈴木安芸守が、やんごとなき御方の、おつきの養育係を命ぜられて四年間、京都に留まったその経験がさせることと思われますから、いずれも耳を傾けました。今の関東では、やれ長州に高杉があるの、薩摩に西郷がいるのと言っても、てんで取上げはしない。旗本たちにとっては、薩摩や長州の藩主そのものでさえが、己れと同格以下に心得ている伝統的の自尊心があるから、そのまた下の軽輩共などが眼中にあろうはずはない。それは浮浪人同様のもので、月旦《げったん》の席へは上せられない。かりに上せられても、一刷毛《ひとはけ》で片づいてしまう。しかし朝廷を擁する公卿となると、実力は問題にならないとしても、その門地の物言う勢力が、彼等をして軽視を許さない。そこで、公卿の人物観に於ては、存外、身を入れて聞くのでありますが、鈴木の岩倉観には、是非共に一言をさしはさむことができない。その代りに、
「では、関東方で、その岩倉に匹敵する人物は誰じゃ、西の岩倉と組んで、引けを取らぬ東の関は何の誰だろう」
岩倉にケチをつけてみたいが、つける知識の持合せが無い、その反動として、東でこれに対抗する人物ありや、と伝法の一人が質問を発したのは、将を射んとして馬を射るの戦法に似たものがあります。そうすると、鈴木安芸守がこれに答えて次の
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