動をして、面の色さしまで変ったのは挙動が甚《はなは》だ不審です。米友も解《げ》せないと思って、その男の落着かなくなる目標の方を見やると、笠をかぶった二三人連れの人がこちらを向いて、徐々に歩んで来るのです。距離としてはまだ一丁の上もあるから、親の敵《かたき》にしたところで、そう今から狼狽するには及ぶまいと思われるのですが、この男の体勢はいよいよ崩れて、ほとんど腰の据えどころがありません。
 先方の動静を見ると、この男を狼狽せしむるような、なんらの体勢を示しているのではない。いわば先方は、こちらに、けったい在《あ》ることも、グロ在ることも一向知らず、平常の足どりで歩んで来るのですが、その姿形だけを見て、このけったいをして身の置きどころなきを感ぜしめるほどの権威が、先方に備わっていると見なければなりません。つまり、あれは十手取縄をあずかるお役人なんだ。その途端、何と思ったか、けったいな野郎は、背中のしこたま重い銭袋を、米友の頭から投げつけて置いて、自分は一散飛びに飛んで横丁の竹藪《たけやぶ》の中へ飛び込んでしまいました。
「危ねえ――」
と叫んだのは、けったいな野郎でなく、米友の声でありました。

         四

「危ねえ――」
 これは米友が叫びました。全くあぶないのです、五升袋へ詰めた銭を、まともに頭からブッつけられた日には、たいていの面はつぶれてしまう。米友なればこそ体《たい》をかわして、銭の袋は後ろへ外したけれど、余人ならば相当の怪我です。だが、出来事は、それっきりの単純なものでありました。
 目標の笠は、ほどなく米友の前へ、ずっしずっしと通りかかりましたけれど、何の騒がぬ面色、足どりで、そのうちの一人が、チラと米友を横目に見ただけで、その前を素通りしてしまったのですから、けったいとも言わず、薬袋《やくたい》とも言わず、何事もなく素通りをしてしまったのですが、その一行は山科方面から来たには来たが、六地蔵の方へ向けて行くかと思うとそうでなく、米友の眼の前を素通りして、すぐに鍵の手に曲ったのは、三位一体の二体がすでに入門したと同じく、三宝院の門に向うのでありました。
 宇治山田の米友は、しばしそれを見送っていたが、二三子の姿は三宝院の境内《けいだい》に消えても、竹藪に飛び込んだ、けったいな野郎は容易に二度と姿を見せません。
 時が経つうちに、米友もようやく退屈を感じ出してきました。退屈を感じはじめると、この男は生来短気なのです。短気が癇癪《かんしゃく》を呼び出して来るのが持前なのですが、ようやく少し焦《じ》れ出すと共に、後ろ捨身に投げられた銭金袋に目がつかないわけにはゆきません。これが米友でなかった日には、何事を措いても、このしこたま[#「しこたま」に傍点]のテラ銭が気になってたまらないはずなのですが、今になって、ようやく草むらの中に、かっぱと伏している袋に気がついたのは、無慾は感心としても、この男の神経としては鈍感に過ぎる。
「やっけえなものを置いて行きやがったな」
 試みに、草むらの中へ分け入って、その袋に諸手《もろて》をかけてみました。重い。幸いにしてこの男は稀代の怪力を持っている。
 かくて、この金袋を抱き起してみたが、さてこれからの処分法が問題です。
 実は問題でもなんでもありようはずはない。およそ、盗難や遺失物は交番へ届けさえすれば、それで済むことなのです。当時まだ交番が出来ていない、出来ているとしても、その近所にないというならば、これに代る一時の手段はいくらもあるべきはずなのです。これを米友が、重大なる問題かの如く悩み出すのも、この男に限って、交番へ届けるという簡単な手続を、極めておっくう[#「おっくう」に傍点]がる理由があるようであります。
 届ける分には何もおっくう[#「おっくう」に傍点]はないが、届けた後には必ず住所姓名を問われるにきまっている、その住所姓名を問われるということが、今日のこの男にとっては苦手なのです。
 彼は、自分で自分を隠さなければならぬ不正直さはどこにも持っていない。また自分で自分を韜晦《とうかい》せねばならぬほどの経国の器量を備えているというわけではない。それなのに、天地の間《かん》に暗いことのない精神を持ちながら、天地を狭められたり、行動を緊縛されたりするというのは、何のわけだか、自分で自分がわからない。ただその度毎に蒙《こうむ》る不便、不快、不満というものは、いかばかりか、ややもすれば生命の危機に追い込まれることも今日まで幾度ぞ。
 そうかといって、一身の危険を回避せんがために、公道の蹂躙《じゅうりん》を敢えてしてはならない。正義の名分をあやまらしめてはならない。届け出て、住所氏名を問われるが、いかに個人的に不利、不益、不快、不満であっても、遺失物に対して相当の責任を取るべき
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