力《くりき》を認められたこと、今度の航海の如きはありません。それは何人よりもまず、駒井船長に認められました。
 というのは、時に感じては、逸早くメイン・マストへ攀《よ》じ上って、出鱈目の口上を口走るが、その出鱈目のうちに、驚くべき天気予報を感知したのが駒井船長でありまして、今日は無事であること、明日は降るであろうこと、曇るであろうこと、または即今、南の方から低気圧が捲き起ること、北の方の潮の色が変っていること、そういうことが出鱈目の口うらのうちに含まれているのみならず、彼の音声の変化だけでも、気象に合わせて科学的に考慮してみると、経緯度ごとに音節の変調を来たしているやに見える。それを最も早く見て取り、聞き取った駒井船長は、船室のうちから、その研究を統計に取りかかりました。その結果が、その少年の声によって、気象の変化をある程度まで識別し得られる――船の針路が、ある程度まで暗示せられ得る、ということを発見して、有力なる航海指針のうちに加えました。それで、この航海が、漂流に似て漂流にあらず、初心の航海者が当然受くべき苦難から、きわどい潮さきによく逃《のが》るることを得て今日に至ったということと、今日に至ってこの島へ安着したその予感も、この少年の感覚に負うところが多いのであります。
 もちろん、人間のことだから、機械のように固定した正確を得ることはできない点もありますけれども、観察の如何《いかん》によっては、生きた気象台であり、生きた羅針台であり、生きた航路案内者となり得ることを、駒井船長が見て取ったものですから、これを観察し、これを利用することを怠りませんでしたけれども、それが評判に上ることによって、船中の要らぬ好奇心を加え、当人の鋭敏な感覚に無用な刺戟を与えてはいけないから、誰にもそのことを知らせずに、当人にのみほしいままに歌わせ、ほしいままに躍《おど》らせて、その純真性をつとめて保護して置かなければならないと思い、誰にも言わないうちに、ただ一人、お松にだけには、相当の暗示を与えて置きました。
 それですから、船長が島に渡った後のお松は、船長室を守ると共に、マストの上なる茂太郎の言動挙動に、それとなく注意を払っておりますけれども、今日の茂太郎は、歌うべくして歌わないのが不思議です。陸に着いたら真先、サンサルヴァドルの歌を歌うべきはずになっていたのが歌いません。
 茂太郎
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