えほう》を向いた年男。
「あちらの方でも御用とおっしゃる」
 蛤《はまぐり》をつまみ上げた長井兵助。
 これを見て、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、手を拍《う》って嬉しがりました。
「寛保二年、閏《うるう》十月の饑饉《ききん》、武州川越、奥貫《おくぬき》五平治、施米《ほどこしまい》の型とござあい――」
 頼まれもしないに寄って来て、袋の結び目から、受けなしの片手をさし込んでの一掴み、口上交りで米友の手伝いをはじめました。
「下総の国、印旛《いんば》の郡《こおり》、成田山ではお手長お手長」
 いい気持になって、人の懐ろで施しをはじめる。友兄いほどにはないが、こいつもまた、相当の曲者で、投げる銭に眼はつけないが、鼻ぐらいはくっつけて飛ばすから、受けきれない。
 さしもの献上組も、これには全く辟易《へきえき》していると、頃を見計らったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、米友を顧みて、
「あんちゃん、物は切上げ時がかんじん[#「かんじん」に傍点]だぜ、この辺で見切りをつけようじゃねえか、お前《めえ》は跛足《びっこ》で、おいらは足が早いんだから、お前、ひとつおいらの背中へ飛びつきな、猿廻しの与次郎とおいでなさるんだ、お前を背負って、おいらが走る分にゃあ、ドコからも文句の出し手はあるめえぜ」
「合点《がってん》だ」
 その時の米友は、感心に人見知りをしません。投げるだけ投げた手を、ぱたぱたとはたき上げたかと見る間に――
 袋はそのまま杖槍は腰に、猿が猿まわしに取っつくように、がんりき[#「がんりき」に傍点]の背中へ御免とも言わずに飛びつくと、心得たもので、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、そのまま諸《もろ》に肩をゆすり上げて――
「あばよ!」
と言って、献上組を尻目にかけ、足の馬力にエンジンをかけると、その迅《はや》いこと。
「あれよ、あれよ」
と献上組、あとを追わんとする者なし。

         十九

 駒井甚三郎の無名丸が、東経百七十度、北緯三十度の附近にある、ある無名島に漂着したのは、あれから約二十日の後でありました。
 漂着というけれども、むしろこれは到着と言った方がよいかも知れぬ。
 船がある一定の航路を持っている限りに於て、それが誤れば漂着であり、それが正しければ到着であるが、駒井の船は到着すべき目的地を持ちませんでした。
 海上は、
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