したからといって、本場の江戸っ子に、あんな奴がありっこはない。
 時勢は、どうか知らないが、お膝元のこの醜態はどうだ。
 神尾主膳の面は、赤怒から白怒に変って行くもののようであります。

         六十八

 昌平橋を渡って姫稲荷《ひめいなり》のところへ来ると、そこにまた人だかりがあります。見ると願人坊主《がんにんぼうず》がチョボクレをうたっている。
 本来、願人坊主はチョボクレを語るべきものではない。これは東叡山の配下で、寒い朝でも赤裸で、とうとうと言って人の門《かど》に立って銭貰《ぜにもら》いをするのだが、無芸と無頼とを以て聞えている。どうかすると謎々《なぞなぞ》のようなものを持って来るのもある。一文人形を並べて、これはこれでも王子の稲荷の大明神、色は白くも黒助稲荷なぞと出鱈目《でたらめ》を言って、一文人形を二三十も並べて、いちいち名前をくっつけて銭貰いをすることなんぞは、芸ある方のうちだが、この願人坊主は、能弁にチョボクレを唱えているところを見ると、願人坊主としては知能のある方だと思って、暫く耳を傾けていたが、その文句に何ぞ思い当ることがあると覚しく、一くさり終ると、渡り仲間を使にやって、そのチョボクレの願人坊主を附近の縄のれんに招き寄せました。
 神尾主膳は、件《くだん》の願人坊主を縄のれんへ連れ込んで、これに一杯飲ませ、
「さて、只今、その方が姫稲荷で唄ったチョボクレを、もう一遍ここで唄ってくれ、いくら長くてもかまわん、初端《しょっぱな》から終りまで唄って聞かせてくれ」
「お耳ざわりで恐れ入りました、どうか悪《あ》しからず御勘弁なすっていただきてえもんでござんす」
「勘弁はあるまい、その方も商売で唄っているのだろう、それが商売で、つまり食うと食わぬの境だから、それで唄っているのだろう」
「御意《ぎょい》の通りにございます、しがねえ商売でございますが、これも意気地なしの身過ぎ世過ぎ、致し方ぁございません」
「お前を叱っているのじゃないぞ、後学のために一つ聞いて置きたいのだ、さいぜんの立聞きで、よっぽど面白いと思ったが、忙がしくて追いかけきれない、ここで改めてゆっくり一つ聞かせてもらいたいのだ」
「唄えとおっしゃられると、これが商売でござんすから、唄わねえとは申し上げませんが、なにぶん作が作でございますから」
「誰の作だ」
「ええ、その作者てえのがわか
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