そこで、駒井甚三郎は望遠鏡を取り上げて、上下四方をほしいままに見てみました。それから湾入の海岸線には特に心をとめて望見したけれど、人臭いという感触のほかに、現に人が住んでいるという形跡は更に認められないのです。しかしながら、この島に船がかりを求める人があるとすれば、自分たちのついた湾入か、そうでなければ、この地点を選ぶに相違ないと思わないわけにはゆきません。
一応、望遠鏡の力によって、観察をほしいままにした後、駒井は清八を促して、その湾入の海岸へと下って行きました。すでに海岸に立って、駒井は、いよいよ以て人臭いという感じを禁ずることができないのです。どうも、人が住んでいる、現に住んでいなければ、遠からぬ昔に人が住んでいたに相違ない。住んでいたといえば土人か。土人ならば、相当部落を成して住んでいるに相違ないが、その形跡はない。僅かの小舟でここに漂着したとか、或いは、やや沖合で船の難破に遭《あ》い、そのうちの幾人かがこの辺に泳ぎついて、ここで暫く生活をしていた、といったような思いがするのです。太古以来、人間の息のかからぬ地点と、一度でも人間が通過した土地とは、痕跡は消しても、空気が残る。駒井甚三郎は直覚的に、それを感じている時に、清八が突然、
「船長様、熊がおりますぜ、熊が――」
四十九
駒井が、人間臭を感じていた時に、清八は異様な動物を認めました。
熊が――と言ったのは、果して、日本人が認める熊であるか、何物であるかを確認したのではなく、何かの動物を、この男が見出したものですから、一概に、「熊が――」と呼んでみたのだ。駒井は直ちに否定しました。熊のいるべき風土ではないということを、反応的に受取ったから、熊が、ということは信じなかったけれども、この男が、たしかになんらかの動物を発見したという信用は失うことがありません。
「あ、熊が、あそこの岩かげから、コソコソと出て、また隠れてしまいました、御用心なさいませ」
駒井の手にせる鉄砲を目八分に見て、報告と警戒とを加える。駒井は、その言うところを否定もせず、肯定もせずに、
「では、行って見よう」
その方面に向って自分が先に立ちました。
「人間だよ、熊ではない」
「人がおりますか、人間が、土人でございますか、土人」
熊であるよりも、人という方がかえって無気味なる感じです。土人、と繰返したのは、土
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