か、象でも鬼でも一ひしぎと、和藤内《わとうない》の勇気を取戻し、身構えをして見ると、それはやっぱり犬の一種だということがわかりました。
 犬ならば、いかに猛犬なりといえども、猛獣ではない。しかもその豪犬の首には、太やかな縄を引きまとい、それを引摺《ひきず》り、こっちへまっしぐらにやって来るのを、兵馬はやり過して簡単にその縄を引止めると、同時に犬は猛然として兵馬に飛びかかって来たけれど、それは、危害を加える意味の抵抗ではなくして、人間に対する挨拶としてもたれかかって来たということが、直ぐにその気合でわかります。これはいい授かりものが迎えに来てくれた、一番これを囮《おとり》にして、門内へ入り込もう、逸走した邸《やしき》の番犬を繋留して連れ戻って来てやるということになれば、家宅侵入の罪名に触れること決してこれなく、且つまた、感謝をもって受入れらるること、これも相違なし。
 そこで、兵馬は、その大犬の轡《くつわ》を取りつつ、徐々《そろそろ》と光仙林の門内に進入して、林にわけ入り、道なきかと思われる跡をたどって、ついに草にうずもれた不破の関守氏の隠宅の前へ来て、改めて柴折戸《しおりど》を叩くと、直ぐに内から声があって、
「お角さんかね」
「旅の者でござりまするが」
「旅の衆!」
と言って、不審がって小窓から面《かお》を現わしたのは、不破の関守氏であります。それを見て兵馬が、
「御当家の御飼養と覚しき見事な畜犬が、路傍に去来しておりましたから、引連れて参りましたが」
「それは、それは」
と言って、不破の関守氏に諒解があって、急ぎ庭下駄を突っかけて、カラリコロリとやって来る音が聞えます。

         四十八

 その翌日、駒井甚三郎は、鉄砲を肩にして、従者とては船乗の清八ひとりだけを伴い、島めぐりのためと言って、早朝から出かけました。田山白雲も、毎日、島めぐりのために出発しますけれども、これは島めぐりというよりも、写景を目的として、任意に出て任意に帰るのです。
 駒井のは、この島の地理学的研究のための実地踏査の第一歩です。
 広くもあらぬ島でもあるし、気候風土ともに、危険のおそれなきことを確認しての上の出立ですから、特にそれらの準備というようなものも必要なしと見て、日一ぱいに行って戻れるだけに、充分のゆとりを見て、一人で行き一人で帰る、いわば散歩気分の外出に過ぎません。

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