むことは嬉しいけれども、茂太郎のように踊ることもできず、白雲のように唸《うな》ることもできない。今日は七兵衛入道が、船夫《せんどう》を指揮して万端の座持をしてくれますから、自分が立入って働かなくてもよい。駒井の殿様と同じように、客分のような地位に置かれましたが、やがて、椰子の葉蔭から高く月を仰いで、むらむらと、場外の夜気に打たれてみたくなりますと、地上に楽しむ人も面白いけれども、この大海原《おおうなばら》の月の夜――何というすばらしいながめでしょう。つい一足二足と歩いて、海岸に出てみます。海はいよいよ遠く、月はいよいよ高く上って、千万里の波につらなる、大洋の面のかがやかしさは、今日まで海には見飽きた眼を以てしても、すばらしいと思わないわけにはゆきません。
 甲州の山で泣いた月、松島の浜の悩ましい月も思い出の月ではあるけれど、この豪壮で、そうして奥に限りのない広さから来る言いようのない淋しさに似た心地、それが何とも言えない。
 お松は、漸く海と月とに酔うては進みつつ行くと、ふと行手に人影を認めました。
 それはたった一つ、自分と同じように、この海岸を歩んで行く人影。この島に、ほかにその人が有ろうはずはないから、あれもわたしたちの仲間の一人、わたしと同じように席を外《はず》して海の風に吹かれに出た人。誰でしょう――とお松は、それを訝《いぶか》るより先に、自分の胸が轟《とどろ》きました。
 誰と言うまでもない、あの席を外して、ああして、ひとりお歩きなさるのは、駒井船長様のほかにはない。いつのまに殿様は、お外しになったのか、気がつかなかった、とお松はそれに胸を轟かすと共に、重い鉛を飲まされたように心がわくわくして、踏む足もとが、しどろに狂う風情です。ぜひなく、そこに立ち尽して彼方《かなた》の人影を、じっと見つめたままでおりました。その時には天上に月もなく、海上に波もなく、お松の心がたった一つの人影にとらわれて、進んでいいか、退いていいかさえわからなくなりました。
 彼方の人影もまた、汀《なぎさ》のほとりを、あちらへ向いて進んでいるのか、こちらを向いて引返しておいでになるか、それもわかりません。絵のような海岸に、ぽっちりと一滴の墨を流したように、人ひとりが立ち尽しているのを見るばかりです。
 しばらくして、お松は月を避けるもののように海岸の砂をたどると、道はいつしか椰子の林の
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