はしたが待ち人が遅い――ああ酔った、酔った、こんな酔ったことは珍しい、生れて以来だ、まさに前後も知らぬ泥酔状態だわい」
 爛酔の客が、またもかく言って唸《うな》り出した。その気配を見ると、部屋の真中に大の字になって、いい気持に紅霓《こうげい》を吹いているらしい。
 だが、爛酔にしても本性《ほんしょう》は違《たが》わない。その唸るところを聞いていると、この御簾の間を名ざしで遊びに来て、承知の上でここに人を待っている、待っているというよりは、待たせられている。酒はもう充分だが、この上は女が欲しいと、露骨に渇望を訴えているようにも聞きなされる。
 しかし、かりそめにも招かれてここへ通ったお客とあれば、その取扱いが粗略に過ぎる。真暗い中へ抛《ほう》り込んで置いて、相方の女は無論のこと、同行の連れの人も居合わさない。燈火も与えられていない。無論、この爛酔の酒も、この席で飲まされたものではなく、どこかで飲んで、それからここへ登楼したのか、投げ込まれたのか知らないが、いずれにしても遊興の体《てい》ではなくて、監禁の形である。
 村正どんは、これはちょっと厄介な相手にかかり合ったという気持だが、なんにしても、こう暗くてはやむを得ない、明るいものにしてから、一応、説諭納得せしめて、店の者に引渡すが手順だと思いまして、
「おーい」
 そこで、さいぜん雛妓《こども》たちに向って打合わせて置いた通りの合図をしました。しかし、この合図の「おーい」にしてからが、性急な調子で言っては雛妓たちを八重に驚かす憂いがあるから、つとめて間延びのした声で「おーい」と言いましたから、その声に安心して、待ってましたとばかり、雛妓隊が手に手に雪洞《ぼんぼり》の用意をしたのを先頭に立てて、廊下づたいにやって来ました。
「おじさん、怖《こわ》い者いた?」
「お化けいた?」
「村正で退治た?」
「やっつけた?」
 口々に囀《さえず》って来るのを、
「なんでもない、お客様がいらしったのだよ、怖くないから早くおいで、おいで」
 招き寄せて、その先頭の掲げていた雪洞を自分の手に受取って、そうして、御簾の間の部屋の中に差し入れて見ました。

         二十四

 雪洞を入れて見ると、広くもあらぬ御簾の間の隅々までぼうと明るくなる。
 見れば、座敷の真中に一人の男が仰向きに爛酔《らんすい》して寝ていること、音で聞いて想像した通り。ただし、この想像は、一人の酔客があって、爛酔して譫語《うわごと》を発しているという想像だけで、その客の人相骨柄というようなものは、雪洞の光を待って、はじめて明らかなるを得たのです。奔馬の紋《もん》のついた真白い着物を着た、想像よりはずっと痩形《やせがた》だが、長身の方で、そうして髪は月代《さかやき》で蔽《おお》われているが、面《かお》の色は蒼《あお》いほど白い。爛酔という想像から、熟柿《じゅくし》のような息を吹き、同時に面ざしも酒ぶとりのした樽柿《たるがき》のような赤味を想い浮べてみると案外にも、これは蛍を欺かんばかりの蒼白さなのです。それで、月代の乱れ髪の髪の毛も相当に黒いのですから、その蒼白みもよけいに勝《まさ》って見え、それが眼をつぶって、とろんとした酔眼を爛々としてみはっているというものでなく、全く眼をつぶって、両の掌をぼんの凹《くぼ》あたりに当てて組合わせながら、天井を仰いで泡を吹いているのです。
 もとより、杯盤もなければ酒器もない。褥《しとね》も与えられていなければ、煙草盆もあてがわれてはいない。無人の室へひとり転がされてあるだけのものなのです。
 村正どんは案外の気色につまされて、しばらく無言で雪洞を上げたまま見つめていると、その袂《たもと》の下からのぞき込んだ雛妓共が、また黙って、その室内を見つめたままでいる。怖いものの正体が、そこに現存していることで、朝霧は自分が臆病の幻を笑われた不名誉だけは取戻したが、ここにひとり横たわる人の姿を見て、また何となしに、恐怖か凄みかに打たれて、沈黙して、村正どんの袂の下から息をこらして見ているだけです。酔客は、黙っている時は死んでいる人としか見えない、死んでここへ置放しにされた人相としか見えないくらいですから、
「殺されてるの?」
「死んでるの?」
 雛妓《こども》たちが、やっと、相顧みてささやき合うたのも無理のないところでしたが、その死人が、やがてまた口を利《き》き出しました、
「斎藤一はいないか、伊藤甲子太郎はどうした、山崎――君たち、おれを盛りつぶして、ひとり置きっぱなしはヒドいじゃないか、来ないか、早く出て来て介抱しないか、酔った、酔った、こんなに酔ったことは珍しい、生れてはじめての酔い方じゃ」
 仰向けになったまま、紅霓《こうげい》を吹いては囈語《たわごと》を吐いている。その囈語を小耳にとめてよく聞き、それから改めて、この室内を篤《とく》と見定めて、村正どんは相当、思い当るところがありました。
 爛酔して寝ている人は、枕許に大小を置いている。その提《さ》げ緒《お》がかすかに肘《ひじ》の方に脈を引いている。それを見るとこの客は、帯刀のままに登楼した客である。この地の揚屋では帯刀のまま席に通ることは許されない。玄関に関所があって、婢共《おんなども》が控えて心得た受取り方で、いちいちこれを保管してからでないと、各室の席には通されない。それは貴賤上下に通じて、古来今日まで変らぬ、この里のおきて[#「おきて」に傍点]なのであるが――最近、そのおきて[#「おきて」に傍点]を蹂躪《じゅうりん》――でなければ、除外例の特権を作らせた階級がある。それは程近い壬生寺の前に住する東国の浪人、俗に称して壬生浪人、自ら称して新撰隊、その隊士だけは古来の不文律を無視して、帯刀のままでどの席へでも通る。当時、それを差留める力を持ち合わすものがない。そこで、この爛酔の客が、通常の客ではない、新撰組にゆかりのある壮士の一人か、或いは、それらの徒の招きでここへ押上ったものかに相違ない、という想定が、早くも村正どんの頭に来ると共に、その夢中で口走る囈語の中に、呼び立てる人の名もどうやら聞覚えがないではない。
 右の種類に属する程度の者とすると、これはうっかり近よらぬがよろしい、普通の酔客ならば、あやなして持扱う手もあるが、あの連中では、うっかりさわっては祟《たた》りがある、という警戒の心がそこで起ったものですから、
「雛妓たち、ここはこのお客さんのお友達が来るらしいから、われわれは、また別の座敷で別の遊びをしよう、さあ、このままで一同引揚げたり」
 こう言って、村正どんは手勢を引具して退陣を宣告すると、夢うつつで、その声を聞き咎《とが》めたらしい爛酔の客が、
「なに、こども、こどもが来たか、子供が来たら遠慮なくここで遊ばせろ。実は拙者も、こう見えても子供は極めて好きなのじゃ、子供と遊ぶほど愉快なことはない、女は駄目だ、成熟した女というやつにはみんな毒があるが、子供には毒がない、今晩も、わしは招かれるままにここへ遊びに来たが、女、女と呼んではみたものの、もう昔のように女を相手にしてみようという気などは起らぬじゃ、子供がいたら子供と遊びたい。そうだな、せいぜい、あの時のお松といったあのくらいの年ばえの子がいたら出せと頼んだが、今晩は、子供さんを買切りのお客があって、あいにく一人も子供さんがありませぬ――とかなんとか挨拶しおったわい。いかにも残念千万――怪しからん、子供の買占めとは怪しからん、つれて来いと怒鳴ってやったが、子供の方から押しかけて来てくれたとは何より、なんの、座敷を替えて遊ぶ必要は更にない、遠慮なくこの席へ入ってお遊び」
 夢うつつの境で、こう明瞭に言いましたから、村正どんの足が釘附けられました。
 人を人と認めて申し出たわけではない、相変らず天井を仰いで、掌を頭の後ろに組んで、眼はじっくりと塞いだままで、こう言うのですから、正気か囈言《たわごと》かの境がいよいよ怪しいものになってくる。すでに、相手の人見知りをして、かかわり合いを怖れたから、こっそり立退きをしようと期していたところとて、看過されて、ついに先方から注文をつけられてみると、それを振切るのがまた一つの仕事になってくる。
 触《さわ》って祟《たた》るほどのものならば、心あっての申込みを拒んだ日にはまた事だ、酔漢といえども底心《そこしん》のありそうな奴だ、何とか適当の挨拶をしないと引込みが悪かろう、と村正氏は、立去りもし兼ねて悩みました。

         二十五

「いや、どうもたあいのないことで、お騒がせして相済みませぬ」
 村正氏は、それをあっさりと仕切って引上げようとするのを、爛酔の客は放しませんでした。
「そのたあいのないことが至極所望、毒のあることはもう飽きた、子供と遊びたい、遠慮なく子供たちをこれへお通し下さい、どうぞ、お心置きなくこの部屋でお遊び下さい」
「いや、なに、もう埒《らち》もないことで、みんな遊び草臥《くたび》れたげな、この辺で御免を蒙《こうむ》ると致そう」
 村正氏が、なにげないことにして逃げを打とうとすると、爛酔の客が、存外|執拗《しつよう》でありまして、
「しからば、貴殿だけはお引取り下さい、子供たちは拙者に貸していただきたい」
「いや、そうは参りませぬ、子供たちだけを手放して、拙者ひとりが引上げるというわけに参らんでな」
「ど、どうしてですか」
「どうしてという理由もないのだが、子供を監督するは大人の役目でな」
「子供を監督――ではあるまい、貴殿は子供をおもちゃにしている」
「何とおっしゃる」
「世間の親は、子供をよい子に仕立てようと苦心している、君はその子供を弄《もてあそ》び物にして、なぶり散らしている」
「何を言われるやら、拙者はただ、子供を相手に無邪気な遊び――」
「なんとそれが無邪気な遊びか、成熟した女という女を弄んで飽き足らず、こんどは何も知らぬ娘どもを買い切って、これを辱《はずか》しめては楽しむ、にくむべき仕業だ」
「いや、長居は怖れ、これで失礼――」
 前後不覚に酔いしれていると思うと、なんでも知っているらしい。知ってそうしてワザとこだわるのか、知らずして無心に発する囈語の連続、とにかく、イヤな相手である、振り切って退散するに如《し》かずと、村正氏は兵をまとめにかかると、爛酔の客は、すさまじい笑いを発しました。
「は、は、は、逃げるな、逃げるとは卑怯だよ、さだめし貴殿は、これがあるから、これが目ざわりで、子供たちを遠のける、こんなものは――」
と言って、今まで押えつけたように仰向けの姿勢を崩さなかったのが、急にその頸にしていた一方の手を引抜いて、枕頭の大小の下げ緒を引いたと見ると、それを無雑作《むぞうさ》に引寄せて、カラリと一方の方に投げ出してしまいました。
「子供と遊ぶに、こんなものは要らぬ、さあ、どちらへでもこれはお片づけ下さい、こうして席を広くして、子供を存分にこれで遊ばせて下さい」
「いや、その儀にも及び申さぬて」
 村正氏は、つかぬ事を言って、とにかく引上げが肝腎だと思うが、無気味なことには、動けないのであります。別段、そくいづけを食っているわけではなし、抱きすくめられているわけでもなし、衣の裾の一方を押えられているわけでもないのに、動こうとして動けない、立直ろうとして、いよいよ足がすくむ思いがする。
 というのは、こう、しゅうねくからんで来られる客の意志を、無下《むげ》に振り切ると必ず反動がある、相手が相手だけにその反動が、またどんな騒動を呼び起すまいものでもない。この手の客はトカクはなれていけず、ついていれば御意の召すまで引きつけられてしまう。簡単な相手のようでかえってうるさい――村正氏は、ようやく何かにからみつかれる思いをしました。
 だが、一方の爛酔の客は、ちっともその座を動くのではない。今の先、両刀を投げ出してみたばっかりで、忽《たちま》ちまた以前のように仰向けの不動の姿勢になり、その両掌をぼんの凹《くぼ》で組合わせていることはかわりません。
 この酔客は前に言う通り、酔って紅
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