くなる酔客ではない、酔ってますます蒼《あお》くなる性質の飲み手であることはわかっているが、すべての応対のうち、一度も眼を開かないということが一つの不愉快だと思いました。いかに爛酔の客といえども、これだけに筋の立った発言ができるのである、いかに酔眼とは言いながら、これだけの物を言う間には、一眼ぐらいは、ちらとでも開いて、そうして、相手の方面を、たとえ上眼づかいになりとも見やって置いて、それから舌なめずりでもして物を言うのが、生態上しかくあるべきはずなのに、この人は、ちっとも眼を開かないで、こっちを見ないで、こっちを相手にしている。いわば眼中に置かぬあしらい方であることが不愉快だと、村正氏もその途端に相応にそれに悪感《おかん》を催したのです。
「では、少々御免を蒙《こうむ》って、お邪魔いたすとしようかな、皆の者も、ここでしばらく遊んで行きな」
切上げようとして、かえって深間へ入り込んで来たのは通人に似合わぬ不覚でした。
村正氏を先に立てて、一隊十余人の雛妓《こども》は、有無なくこの一間に進入して、そうして、これから遊ぼうという、全く遊びたくない気分で遊ばなければならない。
雛妓たちは、舞をする手ぶり足ぶりで、一種無気味な気持と好奇とを持って、早くもこの一間の中に充ち満ちて来て、
「おじさん、これから何をして遊ぶの」
二十六
この一間へ招き入れたと見ると、爛酔《らんすい》の客は、急に身を引きずって、自分で自分の頭を持って引摺って行くかとばかり、ずっと壁際の方に身を寄せてしまいました。
壁際に身を引きずると共に、仕掛物ででもあるように、さきに投げ出した大小も、同じようについて行ったのみならず、その頭の下に敷いていたらしい黒い頭巾《ずきん》と、藍《あい》の合羽様のものをも、共に引きずって、そうして壁際にピタリと身を置いたかと思うと、今度は横向きに頬杖をして、以前の身構えで、長くすんなりと身を横たえたままで、こちらを向いているのです。
多分、気を利かして、席を広くしてやったつもりでもあり、同時に、席を広くしてやって、充分に相手を遊ばせ、自分は長身《ながみ》の見物と洒落《しゃれ》のめそうとしてみたかも知れないが、やっぱりキザなのは、それらの挙動の間、少しも眼を開かないのです。蒼白《あおじろ》い面《かお》にしてからが、爛酔の気分は充分だから、わざと生酔いの擬勢をして見せるのではなく、当人は昏々《こんこん》として夢かうつつかの境にいるらしいが、それにしても、眼をつぶったきりで、こちらを眼中に置かないのが、やっぱりキザであり、癪《しゃく》であると村正さんも、きわどい間に始終それを気にしておりました。
さて、こうなってみると、遊ばざるを得ない。こうあしらわれてみると、イヤでもここで遊ばせざるを得ないことに立ちいたりましたが、そこは、村正どんも一種の通客だから、このまま遊ぶのは遊ばれるようなもので、見たところ、喧嘩の相手にはしたくない代物《しろもの》だが、遊びながらからかってやる分には、どうしようもあるまい、また、そうでもして、こいつを少しムセっぽい思いでもさせてやらないことには腹が癒《い》えない。村正どんも、そんなような仕返し気分がやや働いたものですから、舞子たちに集まれの令を下して、
「さあ、これから一遊び、みんな思いきって面白く遊ぶのだよ、それには、こうしていては遊べないから、みんなして寝ながら遊ぶのだ、女中さんに頼んで、ここへお蒲団《ふとん》を敷いておもらい」
「ここへ寝《やす》むの?」
「みんな一緒に?」
「ああ、雑魚寝《ざこね》よ」
「雑魚寝って?」
このやからも雑魚寝を知らないはずはあるまい。だが、遊ぶことは好きだし、ひどい骨折りをせずに寝て遊ぶように教育される雛妓は、寝ることを怖れずに喜んでいるらしい。
まもなく、仲居おちょぼ連の活躍がはじまり、幾枚かの夜具がこの座敷へ持込まれると、さきの爛酔の客のまわりだけを少々残して、ほとんどこの座敷いっぱいの面積に夜具が展開されました。
そうすると村正どんが、仲居のねえはんを呼んで、
「大儀だが、肴《さかな》をこれへひとつ運んでもらいたい。肴といっても、飲み手はいないから、甘いものをおごってくれ、ようかん、餅菓子、今川焼、ぼったら焼、今坂、お薯《いも》、何でもよろしい、山の如く甘いものを買い集めて、これへ持参するように」
と言いつけました。
この景物は、よほど一座の人気を呼んだらしい。さすがに手を出してガツガツはしないが、みんな面を見合わせて嬉しそうな色を見せる。
それをみると、村正どんは寝巻に着替えもせずに、ごろりと夜具の真中に横になって、
「おじさんは男だから、身ぐるみこのままで寝るが、お前たちは襦袢《じゅばん》一枚になって、ここへおじさんを真中にして、仲よく枕を並べてお寝み――」
「はい、お寝みなさい」
「お寝みなさい」
言われた通りに彼等は、きゃっきゃっと言いながら帯をとり、上着をとって、襦袢一枚になって、はしゃぎ廻っている。
この連中は、ある程度までは客の言うなり次第になるべく仕込まれてもいるし、また、身の防衛本能から言っても、命から二代目の衣装飾りというものを犠牲にして、ゴロ寝をするようなぶしつけはない。
割信夫《わりしのぶ》、針打《はりうち》、花簪《はなかんざし》の舞子はん十何人、厚板、金入り繻珍《しゅちん》の帯を外《はず》し、大振袖の友禅を脱いで、真赤な襦袢一枚になって、はしゃぎ廻っている光景は、立田の秋の錦と言おうか、吉野の花の筏《いかだ》と言おうか、見た目もあやに、高嶺《たかね》の花とは違ったながめがある。
さすがに村正《むらまさ》どん、その風情《ふぜい》を興がって、眼を細くして、前の酔客の形を真似《まね》でもしたように仰向けになってながめ廻していたが、さて、どんなものだと、壁際へ避けた件《くだん》の酔客の姿を見ると、相変らず長身を延ばしたっきり、肱杖《ひじづえ》をついて、じっとこっちを見ているにはいるが、眼を開いていないこと前に同じ。
やっぱり気取っていやがるな、眼をあいて見い、眼をあいて、この未開紅の花を前後左右に置き並べて、色気なしに眠ろうとする、おれの風流をちっと見習え――こうでも言ってやりたいくらいだが、眼のあかない奴には手がつけられない、とテレ加減のところへ、
「お待遠さま」
そこへ、山の如く甘いもの、フカシたての薩摩芋、京焼、蒸羊羹《むしようかん》、七色菓子、きんつば、今川焼、ぼったら等々の数を尽して持込まれる。
それから暫く、眼を見合わせて遠慮をしている時間を除いて、やがて、甘いものに蟻がつき出すと、みるみる餅菓子の堤がくずれて、お薩の川が流れ、無性《むしょう》によろこび頬ばる色消しは、色気より食い気ざかりで是非もないことです。
二十七
食い気の半ばに村正どんは、次のような話をしました。
「昔々、京の三条の提灯屋《ちょうちんや》へ提灯を買いに行きましたとさ、提灯を一張買って壱両小判を出しましたが、番頭さんがおつりをくれません、もしもし番頭さん、おつりはどうしたと言えば、番頭さんが言うことには、提灯に釣がねえ[#「がねえ」に傍点]」
だが、この落ち[#「落ち」に傍点]は、舞子たちにあんまり受けませんでした。というのは、かんじんの、釣がねえ[#「がねえ」に傍点]のねえは、江戸方面の訛《なま》りで、関西では同様の格に用いない。
そこで、まず御座つきは終った、それからあとが大変なのです。
十余人の舞子部隊に命令一下すると、「くすぐり合い」の乱闘がはじまったのは――
甲は乙、乙は甲の、丙は丁の、咽喉の下、脇の下、こめかみ、足のひら、全身のドコと嫌わずくすぐって、くすぐって、くすぐり立てる。甲からくすぐられた乙は、甲へやり返すと共に、丙の襲撃に備えなければならぬ。丙は乙に当ると共に、丁戊《ていぼ》の側面攻撃を防禦しなければならぬ。己《き》と戊《ぼ》とが張り合っている横合いから丁が差手をする。そう当ると庚《こう》と辛《しん》とが、間道づたいに奇襲を試みる。甲と丙とは、自分の身をすくめながら両面攻撃をやり出すと、丁と己とは、その後部背面を衝こうとする――いや、十余人が入り乱れて、くすぐり立て、くすぐり立て、その度毎に上げる喊声《かんせい》、叫撃、笑撃、怨撃は容易なものではない。千匹猿を啀《か》み合わせたように、キャッキャッと、目も当てられぬ乱軍であります。
御大将の村正どん、無論、総勢を引受けて、ひるまず応戦すると共に、折々奇兵を放って、道具外れの意外の進撃をするものですから、そのたびに抗議が出たり、復讐戦が行われたり、その揚句は計らずも聯合軍の結成を誘致してしまいました。唯一の大人、大人のくせに卑怯な振舞をする、乱軍の虚を狙《ねら》っては道具外れ、くすぐるべき急所でないところをくすぐるのは国際法に反している、こんな卑怯な大人からやっつけなければ、正しい戦争はできない、そういう不平が勃発して、そこで、同志討ちの戦闘が一時中止されて、聯合軍の成立を見ました。
「やっつけちゃいなさいよ」
「こんな卑怯な村正て、ありゃしない」
「油断してるところをね」
「ばかにしてるわよ」
「大人から、やっつけちゃいなさいよ」
「村正を切っちゃいなさいよ」
「打っておやりよ、くすぐるだけじゃ仕置にならないわ」
「癖が悪いわ」
「抓《つね》っておやりよ」
「こいつめ、こいつめ」
「村正のなまくらめ」
「のし[#「のし」に傍点]ちゃいなさいよ」
聯合軍が同盟して、激烈な包囲攻撃やら、爆弾投下まではじめたものですから、たまり兼ねた村正がついに悲鳴を揚げました。
「こいつは堪らぬ、降参降参」
白旗を掲げたけれども、聯合軍はその誠意を認めないらしく、どうしても息の根を止めなければ兵を納めないらしい。
「拝む、拝む、この通り」
そこで、聯合軍もいくらか胸が透いたと見えて、
「ごらんなさい、拝んでるわ」
「拝んでるから、許して上げましょうよ」
「その代り、もう、この人は戦争に入れないことにしましょう、決して手出しをさせないことにしましょう」
「それがいいわ」
「では捕虜なのよ、捕虜はここで、これを持って、おとなしく見ていらっしゃい」
と言って、一人が有合わした雪洞《ぼんぼり》を取って、長柄の銚子を持たせるように、しかと両の手にあてがったのは、捕虜としての当座の手錠の意味でしょう。
無惨にも捕虜の待遇を受けた村正どん、命ぜられるままに、柄香炉《えこうろ》を持つような恰好《かっこう》をして、神妙に坐り込んでいると、そこで、聯合軍がまた解けて、同志討ちの大乱闘をつづけてしまいました。
その騒々しさ、以前に輪をかけたように猛烈なものになって、子供とは思われない悪戯《いたずら》の発展。
この騒動で、すっかり忘れられていたさいぜんの蒼白《あおじろ》い爛酔の客。
騒がしいとも言わず、面白いとも言わず、静まり返って、以前のままの姿勢。長々と壁によって、肱枕《ひじまくら》で、こちらへ向いてはいるが、相変らずちっとも眼を開いて見ようとしない。
この、いよいよ嵩《こう》じ行く乱闘の半ばで、不意に燈火が消えました。雪洞《ぼんぼり》から丸行燈にうつした唯一の明りがパッと消えると、乱闘が一時に止まる。
「わーっ」
という一種異様な合唱があって、
「あら、怖《こわ》いわ、早く燈《あかり》をつけてよう」
「怖いわ」
「あら、村正の奴、いたずらをしたんだわ」
「卑怯な奴、暗いもんだから」
「あら、村正が逃げるわよ」
「逃げ出したわよ」
「逃がすものか」
「捕虜の奴、逃がすものか」
暗に乗じて、捕虜が逃走を企てたことは確実で、それを気取《けど》った一同は、同じく暗の中を手さぐりで、捕虜を追いかけると同時に、この室を退散。
そうして、最初に計画を立てた明るい広間の中に乱軍が引上げて見ると、村正どんは、もうすました面《かお》で床柱にもたれて、長煙管《ながぎせる》でヤニさがっている。
二十八
燈《あ
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