かり》の不意に消えたことは、乱軍の休戦ラッパとなり、同時にまた、あの強《こわ》もてのような、変な空気ではじめた余興の見事な引上げぶりに終りました。
 いい汐合《しおあ》いに引上げたものだ、まさに甲賀流の極意! 村正どんは床の間へ帰って、長煙管でヤニさがって、それから腮《あご》を撫でていると、あとからあとからと、創痍満身《そういまんしん》の姿で聯合軍が引上げて来る。そのあとから仲どんが、衣裳と帯とを揃えて持って来る。
 みんな疲れ果てて、もう愚痴も我慢も出ない。せいせいと息をきって、眼を見合わせて、息をついているばかりだが、それでも皆、昂奮しきって、愉快な色が面に現われている。
 村正どんもまた、花合戦よりも蕾合戦《つぼみがっせん》のことだと内心得意がって、この清興(?)を我ながら風流|事《こと》極《きわ》まれりと納まっている。子供を相手に、こういう無邪気(?)な色気抜きの遊びに限る、こういう遊びぶりこそは、色も恋も卒業した通の通でなければやれない、という面つきをして得意満々の体に見えたが、しかし、もう時刻もだいぶおそい、この辺で、この清興に疲れた可憐の子供たちを解放して、塒《ねぐら》につかせてやるのが、また通人の情け、無邪気というものも程度を知ることが、また通人の通人たる所以《ゆえん》でなければならないという面をして、
「どうだ、面白かったか」
「ほんとに面白かったわ」
「ずいぶん面白かったわ」
「でも、わたし苦しかったわ」
「負傷者は出なかったね、怪我をした者がないのが何より。さあ、この辺で、みんな引取って家へ帰って、お母さんのお乳を飲んでお寝み――」
 そこで、みんな衣裳髪かたちを一通り整えて、本当の安息の時間へ急ごうとして、なお余勇がべちべちゃと、あれよあれよと取噪《とりさわ》いでいるうちに、なんとなく物足りない気がしたと見えて、その中の誰言うとなく、
「朝ちゃんは――」
「朝霧さんがいないわ」
「おや」
「お手水《ちょうず》じゃないの?」
「さっきから見えないわ」
「どうしたんでしょう」
「朝霧さん」
「朝子ちゃん」
 一人が言い出すと、みんなが言い合わせたように呼びかけたが、その求める人の返事がない。村正どんも、さすがにそれが気にかかって、
「一人でも討死をさしては、大将の面目が立たない」
 そこで改めて簡閲点呼を試みたが、真実、その朝ちゃんだけがいないのです。呼んでも返事がないのです。
 はっ! と何かに打たれたように、村正氏は慌《あわただ》しく、以前のぼんぼりに火を入れさせて、わざと騒がぬ体にして、
「おじさんが探して来るから、みんな安心して待っておいで」
 一人で、その雪洞を持って、また廊下を引返して来たのは、今の乱闘の現場――御簾《みす》の間《ま》――そこへ、二の足をしながら、雪洞をさし入れて見ると、座敷いっぱいに敷きのべた古戦場のあとはそのまま。はっ! と再び動顛してまず眼についたは、かの壁の一隅、まだ人はいる。以前の長身白顔の爛酔客が、あちら向きになってうめいている。しかも、その壁に押しつけられたところは、大蛇《おろち》が兎を捕えたように、可憐の獲物を抱きすくめて、放すまじと、それにわだかまっている。獲物は、声も揚げない、叫びも立てない、死んだもののようになっている。死んでいるのかも知れない。大蛇は静かに蠕動《ぜんどう》して、そうして確かに生きている。
 はっ! と、村正氏はついに雪洞を取落してしまいました。
 四方はまたまっくらやみ。

         二十九

 その日、大びけ過ぎといった時刻の暁方、追い立てられるように、島原の大門を出た、たった一人の客がありました。
 追い立てられるというのは、ホンの形容で、事実、誰も追う人はなし、追わるるような弱味の体勢にはなっていないが、時が時であって、四方が四方でしたから、引窓の中から抜け出して、朝霧の中へ消えて行くような感じで大門を出たが、足どりは寛《ゆる》やかで、時々町筋に留まっては、前後を思案するような気配がある。黒い頭巾をかぶって、着ていたのが合羽《かっぱ》ではない、被布《ひふ》であるらしい。下着は白地で、大小を落し目に差しこんでいるが、伊達の落し差しではない。スワ! と言わないまでも、いつ何時でも鞘走《さやばし》るような体勢で、それでもって、はなはだ落着いて、静かに地上を漂うが如く忍んで行く。
 ははあ、これだな、先刻、御簾の間の、闇にひとりぽっちの爛酔《らんすい》の客、しきりに囈語《うわごと》を吐いて後に、小兎一匹を虜《とりこ》にしてとぐろを巻いて蠕動《ぜんどう》していた客。
 中堂寺の町筋へ来ると、その晩は残《のこ》んの月が鮮かでありました。が、天地は屋の棟が下るほどの熟睡の境から、まだ覚めきってはいない。一貫町から松原通りへ出るあたりの町角に、またちょっと立ちどまって、仔細らしく思案の頭をひねっている時、後ろからこっそりと忍び寄った、別にまた一つの物影がありました。
「へえ――お淋《さび》しくっていらっしゃいましょう」
とイヤに含み声で、前なる落し差しにこう言いかけたので、立ちどまった前の爛酔の客が、黙ってこちらをかえり見る形だけをしました。
「誰だ」
「へえ――お一人でお帰りでは、さだめてお淋しくっていらっしゃいましょうから、お宿もとまでお送り申し上げようと存じまして」
 前なる人から誰何《すいか》されたので、後ろなる忍び足が直ちに答えました。
「別に、送ってもらわんでもいいが」
「いいえ、その、頼まれたんでございましてな、あなた様をお宿所までお送り申し上げまするように、実は頼まれたんでございまして」
「誰が頼んだ」
「わっしは、島原の地廻りの者なんでございますが、角屋《すみや》さんの方から、たった今、これこれのお客様がお帰りになるから、おそそうのないようにお宿もとまでお送り申せと、こう言いつけられたものでござんすから、それで、おあとを慕って……」
「要らざることだ、女子供ではあるまいし、一人歩きのできない身ではない」
「ではございましょうが、お見受け申すと、どうやら不自由なところがございます御様子、ぜひお前、お宿もとまでお送り申せと、このように頼まれたものでございますから、ついその、失礼ながら、お後を」
「廓《くるわ》からついて来たのか」
「はい、左様でございます」
「お前が勝手に頼まれて、勝手について来る分には、来るなとは言わないが、こっちでは頼まぬぞ」
と言いきって、また立ち直って、前へ向って歩み去ろうとしますが、ここまでお後を慕って来たという忍び足は、はい、左様ならと言っては引返さない。
 ついと、鼠の走るように走り寄って来て、ついその落し差しの膝元まで来てしまいました。
「はい、あなた様には御迷惑でおいであそばしても、こちらは頼まれたお役目が立ちませぬでござりますから、どうか、お供を仰せつけられ下さいませ、お宿もとまで」
 見れば町人風のたぶさが、頬かむりの下に少し崩れている。紺の股引《ももひき》腹がけで、麻裏草履をはいて片膝を端折《はしょ》っている。抜け目がない体勢ではある。
「は、は、は、送り狼というやつかな」
と前なる頭巾が、冷やかに笑いました。
「えッ」
 少々仰山な驚きかたをして見せたが、それ以上、火花も散らず、ともかくも、形は送りつ送られつの形で、道はようやく木津屋橋まで差しかかった時分、
「いったい、お宿もとはどちら様でござんしたかなあ――どちら様へお越し?」
 送り狼もどきの頬かむりが、改めてここでお宿もと、お宿もととつきとめにかかるのが、うさんで、しつこく、からむようにも聞きなされるが、前のはいっこう平気で、
「こちらの宿もとをたずねるより、お前の方で名乗るがいい、何のなにがしと名乗ってみろ」
「何のなにがしと名乗るような、気の利いた奴《やっこ》ではございませんが、轟《とどろき》の源松と申しまして、東路《あずまじ》から渡り渡って、この里に追廻しの役どころを、つとめておりまする」
 轟の源松、聞いたような名だ。おお、それそれ、御老中差廻しの手利きだと言った、長浜の町で、宇治山田の米友を捕り上げた男。あれが、やがて、農奴として曝《さら》しにかかって、草津の追分につながれた時分、往来の道俗の中から、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百を見出して、こいつ怪しいと捉まえにかかったが、それは片腕のないためと、両足の有り過ぎるために、おぞくも取逃した、あの有名な捕方の名に相違ない。有名といったからとて、この冊子に於ての相当の有名だけであって、ここで、フリの客に、轟の源松と名乗りかけたからとても、誰でもそれと知っている名前ではない。
「ナニ、目明しの文吉――というのがお前の名か」
と、前なる黒頭巾が聞き耳を立てて、駄目を押すと、
「いいえ、目あかしの文吉じゃございません、轟の源松と申しまして、渡り者のケチな野郎でございます」
「ははあ、轟の源松」
 その名を繰返しながら、二人は見た目には主従の形で、すれつもつれつ前へと歩みます。

         三十

 轟の源松なるものは、手の利《き》いた岡っ引である。江州長浜の夜で、宇治山田の米友を相手に、あれほどの活劇を見せたが、本来、この辺の地廻りではない。特に天下の老中差廻しで、お膝元の大江戸から派遣せられたものであってみれば、草津や長浜の町が、その腕の見せ場ではないはず。米友やがんりき[#「がんりき」に傍点]だけが当の相手ではあるまい。あれらは、ほんの道中の道草の小手調べ。されば、あれから農奴が膳所藩《ぜぜはん》の曝し場から、なんらかの手によって奪われて行方不明になったにしてからが、また、その曝しの現場を見て、挙動不審で拘引を試みようと思った旅のやくざ者を、上手の手から洩《も》らして、ちょっと歯噛みをさせられたにしてからが、その執念のために、京都から進入して、もっぱらこれが追跡に当るほどのことは想像されない。
 何か、もっと大きい使命があって、その利腕を見込まれたればこそ、京の天地へかく身をやつして、当時、血の花の咲く島原界隈に網を張っているものと見なければならない。
 この晩方、ひとり、島原を追い立てられたこの怪しの客に、何か見るところがあればこそ、お宿もとまでお送りを名として、近づいて来たことに相違ないとすると、そうなってみると、前の長身の客が、ははあ、送り狼と冷笑したのも、あながち、からかいの言い分ではない、転べば食うのである。いや転ばなくても、次第によっては転ばせて、捕縄《とりなわ》に物を言わせる凄味《すごみ》の相手であることは、つい今頃、送られる身になって、ぴーんと来ていない限りはないのだが、草津の駅でがんりき[#「がんりき」に傍点]を咎《とが》めたように、頭ごなしに咎められない。がんりき[#「がんりき」に傍点]を引捕ろうとするような、待ったなしの出足では近寄れない、相手が違う、ということは、近寄る方でも、最初からその勘にあることです。ですから、この芝居は、最初から双方の腹が読めきってやっている芝居で、自然、その渡りゼリフも、双方ともに一物あっての受け渡しなのですから、両方ともに相当の凄味が、底を割ってしまっていて、表面だけはしらばっくれた外交辞令になっている、というのだけのものだから、見ていても存外白ける。これが七兵衛あたりの役者になると、同じ狸同士でも、そこにはまた相当のコクもあろうというものだが、最初から芝居がかりがお客に見えたのでは、芝居にならない。素《もと》と素とがカチ合っているようなものです。そこで、おたがいが兼合いながらの問答であります。
「エエ、お客様のお宿もとは、どちら様でございましたかな、お帰り先は」
 またしても、お宿もと、お宿もと、そう露出《むきだし》に鎌を振り廻さなくとも、身分素姓が知りたいならば、もう少し婉曲《えんきょく》な言い廻しもあろうものを、いったい、最初からセリフが無器用だ。そうそう繰返して、詮索めかして出られると、憤《おこ》らない相手をも憤らせてしまうではないか。ところが今日の相手は存外淡泊で、
「そのお宿もとがな
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