た奴なんです、が若い時分から博奕打《ばくちうち》の仲間入りをして諸方を流れて歩いた揚句に、本来やくざじゃあるが小才《こさい》の利《き》く奴でして、自分のところに渋皮の剥《む》けた貰いっ子をしましてね、それが君香《きみか》といって後に舞妓《まいこ》で鳴らしました、そいつを九条家の島田左近様に差上げまして、それが縁で島田様に取入り、そのお手先をつとめて、いやはや、勤王方の浪人を片っぱしから嗅ぎ上げて、お召捕りの間者をつとめた奴、安政の時に名のある浪人が数珠《じゅず》つなぎになったのは、一つはみんなこいつの仕業なんでした、こいつの隠密《おんみつ》で召捕られた西国浪人が、どのくらいあるか知れたもんじゃありません。そうして九条家へはおべっかをつかい、仲間には幅を利かした上に、弱い者はいじめる、御褒美の方も、たんまりとせしめて、小金も出来ました。二条新地に女郎屋をこしらえましてな、召使をたくさんに使い、天晴れの親分大尽をきめ込んでおりましたが、志士浪人の憎しみが積り重なっている、決していい往生はしねえと見ておりましたが、果せる哉《かな》でございました。それにしても、まあなんて浅ましい姿になりやがったろう」
轟の源松は、一面わが身につまされる淡い感慨の息を吹いている。源松は、文吉ではない。その職務としては同じようなことをしているようなものの、性質が違っている。どのみち、人にはよくは思われない職務にいたが、かりに同職として見ても、この文吉の成れの果てに歎息はしても、さまでの同情は持てないらしい。それというのは、源松には源松としての気負いがあって、自分は腕で行くのだ、こいつのように利で動いて、人を陥れることで己《おの》れの功を衒《てら》うような真似《まね》はしない。罪悪を罪悪として摘発することは己れの職務だが、罪悪を罪悪として作り立てて人を陥れることは、江戸っ児にはできねえ、という自負心があった。おれのは本職だが、こいつはインチキだ、二足も、三足も、わらじをはいている奴だ、我々同職の風上にも置けない奴なんだ、という腹があるから、同情に似た痛快、痛快に似た同情の、歯がゆいような心持で、それをながめながら、
「わかっておりますよ、わかっておりますよ、こいつを殺したのは、土佐の高市瑞山《たけちずいざん》という人の弟子たちで、みんなが先を争ってこいつを殺したがったんですが、その中で鬮取《くじと》りをして、岡田以蔵てすごいのと、ほかに三人が鬮に当っちまいましてな、こいつのような犬猿同様の奴を、刀で斬るのは全く刀の穢《けが》れだから、締め殺してやるがよろしい、締めるには行李《こうり》を締める細引がよろしい……と、わざわざ細引を買って来て、それで、こいつを取捕めえて締め殺したんだ。それごらんなせえ、その下にブラ下がっている細引が、まだ買立ての新身《あらみ》じゃあございませんか」
「何もかも、そう知り抜いていたんじゃあ、嚇《おどか》しにもならぬ」
竜之助は呆《あき》れ果てたようなセリフで、またそろそろと薄尾花《すすきおばな》の中を歩きにかかると、源松が、しゃあしゃあとしてあとを慕って来ること前の通りです。
五十
「時にあなた様のお宿許は、どちら様でございましたかねえ」
轟の源松がまたしても、思い出したように、同じことを竜之助に向って問いかけましたから、竜之助がうるさいと思いました。
「まだそんなことを言っているのか、それは、こっちが聞きたいところだ、島原を振られて、京都の町の中を一晩中うろついたが、ついに拙者の泊る宿所がない、ようやくのこと月心院へたどりついて見ると、そこは、夜もすがら、あはは、おほほで眠れはしなかった、仕方がないから、日岡を越して、山科まで来てしまったのだよ」
「して、その山科は、ドチラかお心安いところがございまして」
「いや、山科へ来たからといって、別に心安いところもないがな、関の大谷風呂へ少し厄介になったことがあるから、もう一晩、あそこへ泊めてもらおうかと、それを心恃《こころだの》みにして来たまでだ」
「大谷風呂でござんすか、それは幸い、わっしも少しあの辺に用向がございますから、御一緒にお供が願いたいもので」
「それは迷惑だな」
「いえ、なに、旅は道連れということもございますからな」
轟の源松は、人を食いそこねたようなことを言って、テレ隠しをしました。
「あんまり有難くない道づれだ」
と竜之助が苦りきりました。
「送り狼というところなんでござんすかな。この場合、どちらが狼でござんすかな。左様、送られる方が狼で……」
「いったいお前は、何でそう、わしのあとばっかりつきたがるのだ、盛りのついた野良犬のように」
「へ、へ、へ、恐れ入りました、これは、つまり、わっしの病ではない、役目なんでございますから、いかんとも致し方がございませんでして」
「お前に役目でつけられるような弱い尻は、こっちにはないぞ」
「そちら様にはとにかく、わっしの方で、ぜひ最後を見届けるところまで、おともが致したいんでございます、悪くつきまとうわけではござりません、役目でございましてな、手っとり早い話が、あなた様の昨晩のお泊り先はわかっておりますが、これからの先、それと、もう一つ、今晩のお宿許と、お国元の戸籍のところを一つ伺えば、それでよろしいんでございます。と申しますのは、まあ、世間並みのお方でございますと、一当り当れば、身分素姓のところ、すっかり洗ってお目にかけますが、あなた様に限って、当りがつきません、まるでまあ、失礼な話だが、幽霊のように、姿があって影がないんでございますからね」
「冗談を言うな、今はそんな冗談を言っている時ではあるまい、おれのような幽霊同様の影の薄い人間を、貴様のような腕利《うでき》き一匹の男が、鼻を鳴らして夜昼嗅ぎ廻っている時節じゃあるまい。古いところで、姉小路卿を殺した下手人はまだわかっていないだろう、三条河原へ足利の木像をさらした一味も検挙されてはいないはずだ、新撰組で芹沢が殺されたその下手人さえ、わかっているようでわからない、つい近い頃、大阪では天満《てんま》の与力内山彦次郎が殺されたというに、まだその犯人がわからない、江戸では、上使の中根一之丞が長州で殺された。ところでこの拙者などは、生来、悪いことは一つもしていない、たよりない宿なしの影法師同様な拙者を追いかけ廻して、いったいいくらになるのだ」
と竜之助からたしなめられて、源松はいよいよテレきった面をして、
「でございましても、病では死ぬ者さえあるんでございます、どうか、そこのところをひとつ、御迷惑さまながら、大谷風呂まで、その送られ狼というところで」
執拗《しつこ》い――がんりき[#「がんりき」に傍点]の百以上だ。百のはいたずらでやるのだが、こいつのは職務――ではない、病だ、うるさい、という思入れで、無言に竜之助が歩き出すと、
「エヘ、ヘ、送られ狼――こっちが気味が悪いんでございますよ」
かくて源松はまた、竜之助のあとを二三間ばかり離れて、薄尾花《すすきおばな》の中を歩みにかかる程合いのところで、またしても、
「あっ!」
と言ったのは、その、おどろおどろと茂る薄尾花の山科原の中から不意に猛然として風を切って現われたものがありました。
「あっ! 狼!」
轟の源松も立ちすくんでしまったのは、冗談ではない、送り狼の、送られ狼のと、口から出まかせに己《おの》れの名を濫用する白徒《しれもの》の目に物を見せようと、狼が飛び出して来た、正の狼が眼の前へ現われた!
と源松も一時は立ちすくんだが、そこは相当の度胸もあるから、
「あ! 狼ではない、鹿だ!」
鹿だ! と呼ばれた時は、その獣は、もはや源松の眼前をひらりと躍《おど》り越えて、行手へ二三丈突っ飛んだ時でありましたが、
「鹿ではない、やっぱり犬だ!」
と、源松が三たび訂正のやむを得ざるに立至ったものであります。
「犬にしちゃあ、すばらしくでけえ犬だなあ」
源松は追註《おいちゅう》をして、改めてそれの馳《は》せ行く怪獣の後ろ影を呆然《ぼうぜん》と見送ったばっかりです。
五十一
不意に出現の怪獣に、最初は狼と驚き、二度目には鹿と見直し、三度目には、やっぱり犬と訂正して、そうして更に、犬にしては豪勢素敵な奴だと追加の感歎を加えて、しばし呆然とその後ろ影を見送って立ち尽している。そのすぐ背後から、またも突然に、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
こういうかけ声をしながら、息せききって走《は》せつけて来るものがあるのですから、源松は、その行手を慮《おもんぱか》らないわけにはゆきません。
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
後ろから走せて来たのを、避けてやり過してやろう――轟の源松は、路傍の草の中へ少し身を引いていると、
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
「すっぱと、らっぱと、待ったった」
怪しげな掛声に呼吸を合わせて、走せて来たのは、まさしく今の犬を追いかけて来たものでしょう。と見ると、犬の大なるに比して、人の小さいこと、ほとんど子供と思われるほどの弾丸黒子《だんがんこくし》、それが、宙を飛んでかけつけた。紺かんばんに、杖を調練の兵隊さんがするように肩にかけて、まっしぐらに馳《は》せて、せっかく道を譲った源松に目もくれず、辞譲のあいさつをする余裕もなく、今し逃げ去った豪犬のあとを追って走り来《きた》り、走り去るのであります。
それをも、源松は暫く面くらって見送っていたが、その時急に呼びさまされたことは、犬ははじめて見る豪犬だが、人間はそうではない、どこかで見ている! ああ、あの小粒! びっこ[#「びっこ」に傍点]を引きながら、しかも軽快に疾走するあの足どり、精悍《せいかん》な面魂《つらだましい》、グロな骨柄、どう見たって見損うはずはない。ほとんど命がけ、江州長浜の一夜の手柄にあげたが、あいつが譲らなければ、こっちが危なかった。
「あいつだ!」
轟の源松は、そう気がつくと、ここでもまた二狼を追うわけにはいかず、一方の送られ狼にはなんら辞譲を試むることなしに、いま目の前を過ぎ去った弾丸黒子に向って、全速の馬力を以て追いかけました。
源松が急角度の方向転換で、まっしぐらに追いかけた当の相手というのは、宇治山田の米友でありました。
あの晩、あの小者《こもの》めをやっとの思いで手がらにかけたが、今以て善良不良ともに不明なのはあいつだ。伊勢の生れだというのに、江戸ッ子はだしの啖呵《たんか》を切るし、兇悪性無類の放浪児とばかり踏んでいたが、その啖呵をきいていると、正義観念が溌溂《はつらつ》として閃《ひらめ》くことに、源松の頭も打たれざるを得なかったが、調べの途中から、全然口を利《き》かなくなり、胸の透くような啖呵も切らなくなり、問われても、責められても、一言一句も吐かない。拷問《ごうもん》同様の目に逢わせてみても、口がいよいよ固くなるばかりだ。のみならず、大抵の責め道具では、あいつには利かない。人間の生身だから痛いには痛い、こたえるにはこたえるだろうけれども、あいつに限って、痛いと言わないのみか、痛そうな面をしない。痛そうな面をしないのではない、本心痛くないのだ。すなわち不死身という変体になっている、そう思うよりほかはなかった。それから、あぐみ果てて、好意を以て、だましつ賺《すか》しつしてみても、いったん固めた口はついに開かない。わざと鎌をかけて、口を開かないと非常な不利益な立場になる、損だぞ、と言っても、損益が眼中にない。
ついに政略上、是非善悪不明のままに、あいつを農奴の張本に仕立てて、曝《さら》しにかけたのは、こいつならば、よし冤罪《えんざい》に殺しても、後腹《あとばら》の病まない無籍者だから、時にとっての人柱もやむを得ないと、当人ではない、役人たちが観念して、草津の辻へ「生曝《いきざら》し」にかけてしまったが、源松そのものも、実はあんまりいい気持がしなかったのだ。無籍者にしろ、放浪者にしろ、ル
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